“僧侶へのお礼”=「お布施」は、無地の袋に

四十九日は四月の最後の日曜日に行った。それはちょうど、山梨が桃の花で桃源郷になる時期だった。これも母が図ったとしか思えないタイミングで、車窓からそれを目にした私は、感銘を受けた。策士やなぁと(笑)。

季節もちょうど、寒くなく暑くなく、年寄りが集まっても具合悪くならない陽気だった。納骨式に集まった面々は、菩提寺の桜吹雪の中にいた。この演出も素晴らしかった。天気も良かった。母は本当に、恵まれた人だったのだ。

法事の前日、佐藤先生は遺骨を抱えて上京した。1人では新幹線でお骨を置きっぱなしではトイレにも行けないからと、姉と子どもたちが迎えに行った。私は菩提寺へのお布施80万円を包む無地の袋を嵩山堂はし本へ買いに走った。

これも親友に聞いたのだが、僧侶へのお礼は無地の袋(和紙)に入れるものだそうだ。80万円を入れた袋は、母の名入り、紫ちりめんの不祝儀袱紗に包み、持参した。

お骨はなんせ骨壺に入っていないため、そして喉仏と歯が入っていないため、事前にやらねばならないことがあった。菩提寺に事情を話し骨壺を取り寄せてもらい、前日に山梨入りしてお骨を移し替えたのだ。

これは内輪で、秘密裏に行わねばならなかった。歯と喉仏を事実婚だった佐藤先生に分骨したことが親戚にバレたら、どんな非難を受けるかわからない。何もしなくても文句だけは言う。渡る世間は鬼ばかりだ。

体裁を整えるために遺族が苦労する。それも喪のしごと。母のことで心が通じ合っていたのは、最後の12年半を共に歩んでくれた佐藤先生だけだったような気がする。

佐藤先生は老人ホームに入る前まで、何度か山梨にお墓参りに行きたいと言って上京した。菩提寺は甲府駅からも離れているから、うちの車で連れてってくれと。いつも滞在する調布のお嬢さんの家まで迎えに行き、山梨に参った。

「これが最後の墓参りになると思うから」と言われて一緒に行ったときのことを思い出す。佐藤先生はすでに耳が悪く、乗り換えるはずだった在来線に乗り遅れてしまった。それで4時間、次の電車を待って、大変な思いをしたのである。

最後の墓参りは、ドライブして山中湖のワインセラーにも寄った。ワインが大好きな方だった。ほうとうをみんなで食べて、ビールで乾杯した。あれが佐藤先生との最後の食事だった。 

それからも老人ホームに入るまでは、毎年秋に、新米のきりたんぽ鍋セットを送ってくれた。血はつながってないが、第2の父だったのだ。

横森 理香
一般社団法人日本大人女子協会 代表
作家/エッセイスト