文明開花で書家は中国へ

明治には欧米諸国に引けを取らぬよう、様々な西洋文化を取り入れていくことになります。その中で、書の分野においては欧米に倣うことができません。それまで鎖国で海外との国交が長崎の出島でオランダと中国にほぼ限定されていましたが、一般人が公に海外との接点を持つことは難しい状況でした。

開国と同時に明治になって書家は書の発祥の地である中国へとその見聞を広げるべく技術や知識を求めにいきます。

この時、中国は清国末期の時代。

初代駐日公使である何如璋の随行者として楊守敬(金石学者、蔵書家、文人)が明治13年(1880年)に来日します。

楊守敬は金石学の研究をしており、多くの拓本を持参していました。

金石学とは中国古代の碑文を研究するもので、それまでの日本の和様の書とは大きく異なるものでした。

この時に伝えられた六朝時代(222年〜589年)の書は日本の書道界に大きな影響を与えました。

明治の三筆である日下部鳴鶴、巌谷一六、中林梧竹はこの楊守敬の影響を多大に受けた三人です。

その中の一人である日下部鳴鶴は「日本近代書道の父」といわれており、門下生は3,000人を超えたと伝えられています。

鳴鶴は彦根藩士で、明治維新後に新政府では大久保利通の下で内閣大書記官となって仕えますが、明治11年(1878年)、当時の内務卿(事実上の首相)であった大久保利通が紀尾井町で暗殺されます。

鳴鶴はこれを機に書家として専念することを決意し、明治43年(1910年)、勅命により大久保利通を讃えた碑文を揮毫することになりました。鳴鶴の最高傑作といわれる「大久保公神道碑」です。現在、青山霊園にあるこの碑文は、一文字の大きさが5㎝角で、総字数2919文字で日本最大の楷書の碑になります。

この書を鳴鶴は石川県の加賀山中温泉に150日間逗留して、書き上げたといわれています。お世話になった大久保利通を偲んで威風堂々とした六朝の書風で書き上げた大作は見応えがあります。

実は私の書の系譜を辿って行くと日下部鳴鶴に辿り着きます。

日下部鳴鶴―松本芳翠―津金寉仙―杉本長雲―前田鎌利

ご縁をいただき、日下部鳴鶴のゆかりのある彦根にて書道塾を開校しておりますが(2023年時点)過去に、鳴鶴の書や石碑を見る機会がありました。

そのたびに自分の書のDNAに触れているような感覚と共に、自分の師へ感謝をする時間をいただきました。

日下部鳴鶴の筆の持ち方は廻腕法という独特の用筆法です。

腕を大きく廻し、肘から先をほぼ水平に半月の形にして運筆する方法で、楊守敬から学んだものです。私も何度か試してみましたが、確かに筆が真っすぐ立って軸がぶれることが無くなります。

ですがこの用筆法で書くことは至難の業。

漢字がメインである中国ならではの用筆法でひらがなを含む日本語にはやや不向きな部分もあります。現在、廻腕法で書く人はほとんどみられなくなりましたが用筆法からも時代を感じることができるのが書の奥深さの一つでもあります。