義経を見捨て、弟たちを殺した藤原泰衡

源頼朝と対立した源義経は、奥州の藤原秀衡を頼り、平泉へと赴いた。これまで秀衡は平家にも源氏にも朝廷にも味方せず、あくまでも中立を貫き、奥州17万騎と呼ばれる兵力と、莫大な財を温存していた。

あくまでも義経を匿う態度でいた秀衡であったが、病に伏せ、ついには死を覚悟するまでに病状は悪化した。死を前にした秀衡は病床に息子の国衡と泰衡を呼び、「義経を主君として従い、兄弟争わないこと」と遺言し、国衡・泰衡・義経の3人に起請文を書かせている。

義経が平泉入りした9か月後、秀衡は66歳でその生涯を閉じてしまう。あまりにも惜しい奥州の巨魁の死である。

家督を継いだ泰衡は遺言に従い義経を匿ったが、義経を差し出せとの鎌倉からの圧力が日増しに強まり、さらに頼朝は朝廷に義経討伐の宣旨を発給させ、泰衡を追い込んだ。

1188年、泰衡は祖母を殺し、翌年にはさらに末弟の頼衡を殺害したと『尊卑分脈』には記されている。おそらくは義経の扱いと鎌倉への対応をめぐっての意見対立が原因であろう。

自分を守るためだけの藤原泰衡の決断

1189年閏4月30日、義経主従のいる衣川館を500騎の兵が襲い、義経は紅蓮の炎の中で自害して果てたという。さらに泰衡は、義経と親しくしていた弟の忠衡と通衡も殺して義経派を一掃し、義経の首を鎌倉に送り、頼朝に対して恭順の意を示している。しかし頼朝は「家人の義経を許可なく討伐した」ことを理由に藤原氏を攻めた。

平泉軍は、関東からの進撃ルートに長大な防衛線を築いて待ち構えたが、防衛線を迂回して背後を攻撃するという単純な策で頼朝軍が圧勝する。

泰衡は助命嘆願の書状を頼朝に送るも無視され、逃亡中に家人に殺されてその首は頼朝のもとに送られた。頼朝は届いた泰衡の首の眉間に八寸の釘を打たせ、柱にかけてさらしている。主君と思えと父に言われた義経を裏切り、祖母と弟たちを殺してまで保身を考えた男の、無残な最期であった。


日本史研究会