父を追放し、子を死に追いやった「修羅の生涯」

名将、仁の人として知られる甲斐の武田信玄。彼もまた、親子関係には恵まれない人物であった。信玄は、父親の信虎に疎まれ、父親を憎んでいたという。あるとき、信虎を同盟国である今川家との国境近くで拉致し、今川家の本拠の駿河に放逐している。その後信虎は出家して「無人斎道有」などという号を名乗っているが、彼は隠居の立場をそれなりに受け入れていたものと思われる。

今川家中では、娘が義元の正室であるため、「御舅殿」と呼ばれて扱いも悪くはなかったようだ。行動にもかなり自由があり、京都に上ることも多く、将軍家とも交流を持っていたという。晩年は甲斐に戻り81歳まで生きた信虎は、息子に国から追放されたとはいえ、決して不幸な生涯ではなかったといえるだろう。

今川攻めで対立した嫡男義信を幽閉

小説などでは織田信長のライバルとして描かれる武田信玄であるが、信玄と信長は長い間同盟関係を保ち、対立したのは徳川家康と信玄が敵対関係になって以降である。

実は、家康と信玄も同盟関係にあった時代がある。今川義元が桶狭間で信長に討たれると、今川家に従っていた家康は三河で独立。信玄と連絡して、ともに今川家の新当主の氏真を攻めるという形で両者は手を結んでいる。

信玄の嫡男である義信の正室は、今川義元の娘であり、義信は、氏真とは義兄弟ということになる。義元が討たれ、今川家が弱体化したからと、これを攻めるというのは、人の道、義に反したことであると義信は主張し今川攻めに反対した。

しかし、豊かさをもたらす海を欲していた信玄は、今川攻めに反対している息子の義信を幽閉し、その2年後に義信は幽閉先で自害して果てている。信玄に、義信を殺すつもりがあったかは謎であるが、2年もの間、殺していないところから、命までは取らないつもりでいたように思われる。

義信の正室は、義信が死んだ後に駿河に戻されている。つまり義信が生存中は甲斐に留めおかれていたことになるのだが、そうであれば、信玄には、いつか義信を許すつもりがあったと推測すべきであろう。実は信玄は、家族愛を誰よりも強く欲していたのではないだろうか。