徳川家康の非道…子殺し妻殺し

征夷大将軍に補任した徳川家康は、わずか2年で将軍職を息子の徳川秀忠に譲っている。形として隠居した家康は、京でも、江戸でも、生まれ故郷の岡崎でもなく、人質時代に過ごした駿府を隠居地とした。いやな思いをした場所で隠居しようなどと思うことはなく、家康が駿府を選んだということは、今川家の人質時代が、家康にとっては心地良いものであったということを示している。

家康が人質時代に苦労し、今川家より過酷な扱いを受けていたかのイメージは、今川家を裏切り、後に正室の築山殿を処断していることを正当化するため、江戸期に捏造された伝承である。むしろ家康は、最高の待遇を受けていたのだ。

若き日の家康の、苦い思い出

1570年、家康は浜松城に拠点を移し、岡崎城は嫡子の松平信康に与えている。岡崎城主となった信康は、祖父と同じく松平家の嫡統であることを示す岡崎三郎を名乗った。信康は武勇に優れ、家臣からも慕われていたようであるが、1579年、母である築山殿とともに、敵国の武田家への内通を理由として処断されている。織田信長が信康の優秀さを嫌い、嫡男である信忠の将来の禍根を断つため、信長の命で殺されたと説明されることもあるが、その可能性は低い。

研究が進んだ近年では、信康をかつぐ岡崎派の家臣と、家康を中心とする浜松派との対立が激化し、家中が分裂する直前に、これを防ぐために処罰したという考え方が有力視されている。

簡単にいってしまえば、嫁と息子が派閥を組んで自分を追い落とそうとしたので、先に嫁と息子を始末したと、そういうことである。

徳川の家臣には一向宗徒も多く、本願寺と敵対することへの不満も一部家臣にはあり、彼らが信康に加担した可能性もある。信康の処罰後には、岡崎派の家臣の粛清が行われており、その説の補強材料となっている。

この時期の織田信長は周囲を敵に囲まれ、同盟者である家康に、子殺しなどという無理難題を押し付けることのできる状況ではなかった。信長が命じたとの説はありえないと考えてよいだろう。