鎌倉が恐れ、欲した奥州の黄金

一説に、中世イタリアのマルコ・ポーロが『東方見聞録』で日本について「黄金の国ジパング(Cipangu)では莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできている」と書いたのは、奥州藤原氏が建立した毛越寺や中尊寺の、黄金で彩られた無数の堂宇を表現したものだという説があるが、それほどに、藤原氏の財力は絶大であった。

無限とも思える藤原氏の財力

平泉の寺院について『吾妻鏡』では、その数と豪華さについて、驚きをもって記している。毛越寺は堂塔40余宇、禅坊500余宇。金堂は金銀でちりばめられ、高価な名木がふんだんに使われ、万宝を尽くして荘厳に輝いていた。

無論、金堂以外の建物も、贅を尽くした善美なものであった。さらに、恐るべき数の仏像、経典がそれらに安置され、そのどれもが都の最上の仏師が造立したものか、中国から黄金で購入した一級品であった。

これは一例であるが、藤原清衡が中国から購入した一切経5千数百巻のために支払った黄金は、10万5千両であったという。1両37.3gで計算すると4トンである。中世東北では、金1両の重さを20gほどとしたという資料もあるが、それでも2トンの金である。

中世の東北は、「みちのく山に黄金花咲く」と謳われていたが、渓流で採れる砂金や鉱山で、大量の金が産出していた。

また、奥州の日本海側には、青森の十三湖に代表される貿易港が多数あり、大陸との交易で栄えていたが、大陸や北方との交易で得た鷲羽、アザラシの毛皮、絹織物などは、武士たちに高く売れていたという。さらに奥州では鉄の生産、馬の生産も盛んであった。

武士は矢羽に鷲羽を使い、甲冑では毛皮を使い、武器に鉄を使い、馬に大金を支払う。鎌倉を支えた武士たちが、実はこぞって奥州藤原氏の富を増やしていたのである。

平家を打ち倒した源頼朝にとって、この奥州の富は、脅威ではなく次の獲物でしかなかった。源義経が奥州に逃げたのは頼朝にとってはむしろ好都合、願ってもない展開であったのではないだろうか。