介護をおこなうのは大変で、思ったようにいかない日々が続いたり、神経をすり減らしてしまったりと、一筋縄ではいかず、先が見えない未来に不安になってしまうこともあるのではないでしょうか。さらに、認知症の母を介護するとなると、実の親子だからこそ複雑な感情がまじりあうことも多々あります。10年間、認知症の母を支え続けたロコリ氏の著書『72歳、好きな服で心が弾む、ひとり暮らし』(KADOKAWA)より、介護生活の苦難と、大変ななかにある心温まるエピソードを紹介します。
一筋縄ではいかない介護
80代になっても近所の公民館でカラオケの講師をし、毎年発表会を行っていた母。そんな母もさすがに体力が落ちてきたなと感じたのが85歳になったころでした。生徒さんのお月謝をいただいたとかいただいていないとかのちょっとしたトラブルもあり、そろそろ潮時だろうと、15年近く続けたカラオケ教室をやめることになりました。今思えば、このころから軽度の認知症の症状が出ていたのです。
最初にあれ?と思ったのは、買い物に行く度に、こんにゃくと歯間ブラシを買ってくるようになったことです。今までそんなことをしたことはありませんでした。
姉に頼んで病院に連れていってもらうと、やはり「始まっていますね」ということで、デイサービスを頼むことになりました。施設も検討しましたが、近くに手頃な空き施設がなく、また、見学に行った施設では認知症のお年寄りが大声でわめいていたりしたので、おしゃれで華やかだった母を入れるのは忍びないような気がして、みれるところまでは家でみよう、ということにしたのです。
だんだんと症状がひどくなると、週3日→4日→泊まり、と、デイサービスの日が増えていき、母の体調によっては私も仕事を休まざるを得なくなっていきました。
認知症の介護というのは、一筋縄ではいきません。毎日デイサービスに送り出すだけでも一苦労ですし、母が動けなくなったり、予想外の行動をすることに神経がすり減っていきました。
台所に立ちたがる母は、あるときは、ティファールの電気湯沸かし器をコンロにのせて火をつけようとしていました。そのティファールを水で丸洗いして壊してしまい、さらに電気釜も同じように水洗いして壊したので、使うとき以外は押し入れに隠しました。それに代わって魔法瓶の水筒を用意して、母の前に置いていました。
トイレに立ったはずがなかなか帰ってこないので心配になって見に行くと、洋式便器に片足をつっこんでいたこともあります。お風呂と勘違いしたのです。トイレがつまったので業者さんにみてもらうと、シャツが出てきたこともありました。
トイレといえば、お風呂で大便しようとしていたこともあります。そのときはびっくりして思わず、「やめてー!」と、悲鳴のように叫んでしまいました。ときすでに遅しでしたが。でも振り返ればお風呂の件はまだマシでした。
最後の方は、トイレに行きたくなると全裸になるようになり、トイレまで間に合わないので廊下でも部屋でも、ところかまわずもらしてしまうようになったのですから。そのためにお高めな使いやすい消毒液をまとめ買いしていたので、コロナ禍に入ったときでも困ることはありませんでした。
そしてついに家を抜け出して徘徊し、警察のお世話になったときは、ああ、もう限界だ、と思ったものです。このころには施設に申し込んでいましたが、順番待ちですぐには入れず、ひたすら耐える日々でした。
このころを思い返すと、もっと優しくしてあげればよかったと後悔する気持ちがあります。ただその当時は必死でしたし、実の親子だからこそ複雑な思いがあって、いい顔ばかりはできなかったなあと思います。