介護をおこなうのは大変で、思ったようにいかない日々が続いたり、神経をすり減らしてしまったりと、一筋縄ではいかず、先が見えない未来に不安になってしまうこともあるのではないでしょうか。さらに、認知症の母を介護するとなると、実の親子だからこそ複雑な感情がまじりあうことも多々あります。10年間、認知症の母を支え続けたロコリ氏の著書『72歳、好きな服で心が弾む、ひとり暮らし』(KADOKAWA)より、介護生活の苦難と、大変ななかにある心温まるエピソードを紹介します。
85歳までハツラツとしていた母は、生き方のお手本
新しもの好きで常に新しい環境に飛び込んでいく私の性格は、母ゆずりかもしれません。
母はモダンでとてもおしゃれな人で、身長162cmと当時の女性にしては背が高く、私から見ても美人でした。
行動力やチャレンジ精神も旺盛でした。まだ自家用車が一般的でなかった時代に、自動車の運転がしたくてしたくてたまらず、運転免許を取得。ですが、父のお給料では車は買えません。そこで母がどうしたかというと、「社長お抱えの運転手」の募集を見つけ、見事採用されたのです。
社用車の大きなクラウンを女性ドライバーが運転する姿は、当時かなりハイカラだったと思います。「交差点で車を停めると、みんなが振り返って見るのよ」と母が自慢していたのを思い出します。
母が71歳でカラオケの講師になったのも、びっくりするようないきさつでした。当時の私は40代半ば。私が結婚しないことを気にしていた母は、そのストレス解消のためか、友達とよくカラオケに行くようになりました。
そこで、もっとうまくなりたい!と思ったようで、偶然カラオケで一緒になった歌のうまい方に、「先生になって歌を教えてください」と頼み込んだのです。
その方は地元のデパートに主任として勤める男性でした。そのことを知った母は、「カラオケ教室を開いてください」とその男性の売り場に何度も何度もお願いに行きました。売り場では、「あのおばあちゃんまた来たよ」と有名になるくらいだったようです。その方はもともと趣味で歌っていたのですが、母のお願いがきっかけでカラオケ教室を始めることになり、今でもまだ活躍されているそうです。
そのうち、熱心に歌を練習した母自身も講師となり、近所の公民館などでカラオケ教室を開くまでになりました。
母が好きだったのは歌謡曲やシャンソン。発表会ではきれいな銀髪に貸し衣裳の華やかなドレスを着こなし、華がありました。71歳で自分の教室を始め、認知症を発症する85歳まで続けましたから、たいしたものだと思います。
残念ながら“美人”については遺伝しませんでしたが、母の行動力は、今も刺激になっています。