「面倒だが、俺がじきじきに対応するか」
「お前、何年この仕事やってるんだ!? もっと丁寧にやらんと、また不良品になるぞ!」
先ほどまで響いていたセミの声をかき消すように、工場内に声が響く。その声の主は、埼玉県川口市にある鋳物工場「大鉄鋳造」の社長、赤星正二である。檄を飛ばされた初老の男が、帽子を取って深々と頭を下げている。
工場から少し離れたところにあるさほど広くない事務所内に戻ると、また同じ声がする。
「どうだ、注文決まったか? ……駄目か。やっぱり、俺がいないと決めきれんか。まだまだだな」
すると今度は、若い男が苦笑いしながら頭をかいた。
「社長っ。お客様、お待ちですよ」
事務の女性・白倉が社長のそばに寄って小さな声で伝えると、会議室のほうに目をやった。
「おう、そうだった。殿山さんもう来なすったのかい?」
「ああ来たよ。不良率削減のための取り組みについて話し合うことになってる」
そう言ったのは、専務で工場長の五十嵐である。
殿山興業との取引は、大鉄鋳造の技術力が評価されて受注が決まったまではよかったが、次々と高いレベルが要求される中で、品質基準をクリアできないでいた。五十嵐がしばらくこの問題に取り組んでいたが、社長と直接議論の場を持ちたいと、責任者と共に数人を引き連れて先方から乗り込んできたのである。
「五十嵐でも駄目かい。しょうがねぇ。面倒だが、俺がじきじきに対応するか」
「社長、シッ! 聞こえますって。もっと小さな声で」
「白倉ちゃん、大丈夫。心配しなさんなって」
白倉が人差し指を口に当てて制したが、大きな声と勢いそのままに会議室に入っていった。続いて五十嵐が同じ部屋に入っていったが、聞こえるのは社長の大きな声だけである。その声も二十分もすると消えてなくなり、一時間後には殿山興業の全員が会議室から出てきて、「それではよろしくお願いします」と社長に少し頭を下げて帰っていった。
「ふぅ~、今日はこれでしまいだ。明日もみんな頑張ってくれよ! お疲れさん!」
社長がそう言って白倉の背中をポンと叩いて事務所の出口に向かうと、その場にいた従業員が、消えていく社長の背中に向かって一礼した。
技術・営業・顧客対応…すべて社長に頼りきり
「それにしても、さすが社長ね。殿山興業の人たち、来たときはムスッとしてたのにね」
白倉がそう口にすると、五十嵐が首を横に振った。
「いや、結局、値引きの話になった。ねずみの単価を五円下げることになっちまった」
「昔は値切られることなんてなかったのにな。社長の影響力が落ちたってことですか……」
社長のいなくなった事務所に、少しどんよりした雰囲気が漂った。
技術も営業も顧客対応もすべて、社長におんぶにだっこ。社内のあらゆることで、いざというときに最後に頼りになるのは社長だけであった。それは従業員全員がわかっていた。
大鉄鋳造は現社長の正二が三十五年前に創業し、一代で年商二十億円を超える会社に成長させた。鋳物業界で年商二十億円を超える会社はそう多くない。
大鉄鋳造のある川口市はかつて鋳物業が盛んな街であったが、近年、郊外への工場移転や廃業が続いている。市場の縮小によりその数は全盛期の半分を下回っており、残った会社もなんとか切り盛りしているところばかりであった。そんな状況の中で、大鉄鋳造はギリギリのところで黒字経営を維持していた。
ところがこの数年は、大口顧客の需要変動やつきあいの浅い顧客からの依頼が少なくな
るなど、仕事量そのものが減少しており、加えて長年取引を続けていた顧客からの単価引き下げ要請もあるなどして、経営は必ずしも順調とはいえない状況であった。
「……うちは大丈夫なんですかね?」
(続)