・和久井健太(わくい・けんた)
京都にある洛中信用金庫に就職。入社三年目を迎え、北大路支店の営業部に配属されるも、引っ込み思案がわざわいして、苦戦。最近自分がこの仕事に向いているのか悩んでいる。
・桜四十郎(さくら・しじゅうろう)
偶然入った喫茶店で出会った職業、住所、年齢ともに不定の謎の中年男性。なぜか金融関連の事情に詳しく、和久井にいろいろとアドバイスをするように。
気になっているのは、桜四十郎というあのオヤジさんに礼を言えないことだ。
連絡先を聞いたときには、「まあいいじゃないか。一期一会ってことで」とはぐらかされた。
和久井のほうからは名刺を渡しておいたので、飯でも奢れと向こうからコンタクトがある気がして、それ以上は追及しなかったのだが、それっきり桜さんからは何の音沙汰もなかった。
「もう、ええかげんにしといてえな」
加えて、あの人に問いただしたいこともあったのだ。
確かに見崎さんの案件については、桜さんの予想はズバズバと的中した。けれど、こだま屋の件は逆効果になった。
言われた通り、佃煮店のこだま屋に顔を出して「お元気ですか」と挨拶してみたのだが、主人は露骨に顔をしかめた。
「もう、ええかげんにしといてえな」
それでもめげずに、近くを通るたびに何度か顔を出したのだが、返ってくるのは皮肉と当てこすりくらいだ。
頂上に着いた。和久井は残りのドリンクを飲み干した。ここからはひたすら下っていくので、水分補給はしなくていい。途中の鞍馬駅の前で自動販売機から何か買って補給をすれば、わかば寮までは充分もつ。
和久井はウィンドブレーカーを羽織って、ジッパーを引き上げると、ゆるゆると下りはじめた。
下りの山道は、調子に乗ってスピードを出すと危ない。このことは自転車仲間ではよく言われている。特に林道のカーブで急に姿を現したバスと正面衝突すると、もう洒落にならない。そしてこの道は、路面のコンディションもあまりよくなかった。
鞍馬駅で自転車を停め、大きな赤い天狗を拝んで、駅舎に置かれた自販機に向かうと、赤く塗られた自販機の横に赤いロードバイクが停まっていた。
「花脊峠は、ここまっすぐでええのかな」
きれいな声に振り向くと、若い女がジャージに身を包んで立っていた。かけているサングラスに杉木立とその上の青い空と白い雲が映っている。
「ええ、この先、まっすぐです。ゴール手前で二股に分かれるところがありますが、それを左。右に行くと百井峠なので注意してください」
「ありがとう」
女はスポーツドリンクを自転車用のボトルに移し替えると、それをケージに差し込んで、サドルに跨がった。そして、ペダルを踏み込むと、軽くダンシングしながら、国道四七七号線、通称〈国道 死なないで(477)〉を登っていった。
うーん、と和久井は思った。
後半にかけてきつくなるから最初はトバしすぎないようにとか、アドバイスしてあげればよかったかな、などと考え、なんで俺はそんなお節介を焼こうとしたのかとまた考えた。
サングラスとヘルメットに隠れてよくわからなかったが、あれはひょっとしたらひょっとするのではないか。鼻筋はこの峠のように勾配が高く、口元は引き締まって知性を感じさせた。たぶん相当に乗り込んでいるであろう引き締まった身体のラインも魅惑的で、サドルは高く、ハンドルは低く遠く、長い手足がよく映えるセッティングだ。
「いい」
コーラを一口飲んで和久井はつぶやいた。
よけりゃ、なんだっていうんだ。そんな疑念がすぐに湧いたが・・・。