・和久井健太(わくい・けんた)
京都にある洛中信用金庫に就職。入社三年目を迎え、北大路支店の営業部に配属されるも、引っ込み思案がわざわいして、苦戦。最近自分がこの仕事に向いているのか悩んでいる。
一月ほど経った。
和久井は休日に、二階の廊下に置いてあったロードバイクを降ろし、北山にハンドルを向けて、府道四〇号線を北に走った。
きれいな渓流を見ながら、山懐に入っていくと、空気が徐々に澄んでくる。鶯をはじめとした春の鳥がしきりに鳴き、足元を流れる水が陽光をきらめかせた。
鞍馬を過ぎて、本格的な登りに備え、和久井はボトルに手を伸ばした。
「あんたのおかげやでー」
審査は、ほぼ通る見通しがついた。
それだけではなく、ここまでの展開があまりに桜さんの予見通りになったのに和久井は驚いた。
「あかん」
審査部の神部さんは、いったんはNGを出した。
「話にならん」
「わかりました」
和久井は引き下がり、数日後にまた本店に出向いて、安定収入を世帯で見てくれれば、こうなりますと説明した。
神部さんは腕組みをしながら聞いていたが、説明を終えると「なるほど」と言った。そして、和久井が出した書類をしばらくじっと見ていたが、
「よし、それならええ」と通してくれた。
「通ったんか」
北大路支店に戻ると、いつもは嫌味ばかり言う田中主任が感心した。
それ以上に喜んでくれたのは、例の喫茶店の女主人、見崎優子さんである。
「あんたのおかげやでー」と涙まで流してくれた。
「いや、僕のほうこそ、預金もしていただいた上に、融資もさせていただいたのですから、お礼を言わなきゃいけません」
和久井も、そう言って頭を下げた。これまで小言を食らって平身低頭することはしょっちゅうだったが、このように心からの感謝とともにお辞儀をするのは久しぶりで、また格別だった。自分が可憐なしだれ桜になったような気がした。
なんだ、金貸しもここまで感謝されたりするんだ。こんな仕事でもいいことはあるんだなと思った。そういうふうに素直になれるところもまた、和久井の持ち味である。
後ろから京大のサイクリング部が、どうもーと抜いていった。
和久井も抜かれながら、うぃーす、と答えた。
自分のペースでこの登坂(とはん)を楽しもう、和久井はそう思ってギアを軽くした。自分の脚力を知らずに、無理してペース配分を乱すと、この前みたいに途中で足を着くことになる。遅くてもいい。けれど、足を着くのはよくない。大事なのは、激坂でもペダルを回し続けることだ。和久井は自転車乗りとしての自分のテーマをそう決めた。
前回、思わず足を着いた坂が壁のように迫ってきた。和久井はもうひとつギアを軽くした。そしてペースを落とし、脚への負担を軽くした。苦しいからといって短時間で一気に登り切ろうとすると、かえって走りが滅茶苦茶になり、登り切れないことがある、そういうこともわかってきた。
今日はなんとか足を着くことなく、この坂をこなすことができた。