・和久井健太(わくい・けんた)
京都にある洛中信用金庫に就職。入社三年目を迎え、北大路支店の営業部に配属されるも、引っ込み思案がわざわいして、苦戦。最近自分がこの仕事に向いているのか悩んでいる。
「ほかにやりたいことないの?」
「ほんまはこれでも歌手なんよ、私」
「歌手?」
謎の男と和久井が声を合わせて尋ねた。
「ジャズ歌ってんの。でも、それやと食べていけへんから」
和久井は日本のジャズ歌手の名前を思い浮かべようとしたが、ひとりも名前を挙げられなかった。日本でジャズを歌って生活する、それはイランで津軽三味線を弾いて投げ銭で暮らす、ノルウェーで風鈴の工房を営む、そんなこころもとないイメージだ。
「まあ、そりゃあねえ」
顔を曇らせて中年のオヤジが言った。
「旦那さんはどうしてるの?」
和久井に家族構成を訊けと言うだけあって、オヤジはずけずけと家庭の事情に立ち入っていく。
「それがねえ、聞いてくれはる?」と言って、女主人は椅子を引いて座った。
「お姉さん、やっぱりジャズ歌ったほうがいいよ」
店の人間が客と同席する格好になった。和久井はなんでこうなるのよと思ったが、席を立てないでいる。
「主人は税理士で、個人事務所を開いてますねん」
「ほお」と男はコーヒーをまた一口飲んだ。ぬるかろうがマズかろうが、それは俺のコーヒーだぞ、と思った。しかし、それを口に出せないのが和久井である。
「秘書の女とデキて、揚げ句の果てに別れてくれやて」
「ほお、それは気の毒だな。その女は若いの?」
「若いゆうたら若いけど。でも若いだけやん。別嬪さんってわけでもないのに」
「へへへ」
男は同意するでもなく否定するでもない、妙な笑い声を出した。
「でも、敵は最初から狙ってたんやと思うわ。それやのに、まんまとやられてしもて、若けりゃええのんかって言いたいわ、このボケが」
「そりゃそうだ。ジャズを歌う女の色香がわからんのかってね」
男は混ぜっ返した。
これは時間の無駄だと思い、和久井は伝票をつかんで腰を浮かした。
この時、オヤジの手が和久井の肩にすっと伸び、和久井は強烈な力で椅子に押さえつけられた。
なんだ、これは? ここにいろってことか?
「じゃあ離婚は旦那が言い出したんだな。だったら、いくらか渡してくれただろう、その金でこの店を?」
「まあ、向こうも悪いとは思てるみたいやったから、いくらかまとまったものは残してくれたんやけど、それで一生食べていくと思うと心細いし、なんかせんとと思てここを・・・。けど、やっぱり向いてないんやろか」
向いてない! 心の中で和久井は叫んだ。
「そうだな、お姉さん、やっぱりジャズ歌ったほうがいいよ」
「そう言わはるけど、あの世界もそんなに甘いもんやないし」
「まあ、そうかもな。けど、まだ少し残ってるだろう?」
「何がですの?」
「お金、旦那がくれた」
ひょっとしてこいつは詐欺師じゃないか、と和久井は疑った。
「ええ、少しは」
「いくらなの? お姉さん」
「二千万ほど」
お姉さんって言葉で、つい口が滑ったな、と和久井は心配になった。
「それは箪笥で眠らせてるのかい?」
「いえ、少しでも増やそうと思て、投資信託を考えてるんやけど」
「それは危ないなあ」
「なんで? 長期で分散投資するんやったらまず間違いなく儲かります、て言うてくれてはるけど」
「どこの銀行?」
「葵銀行。一流やで」
「お姉さん、リーマン・ショックってのはね、超一流銀行がまず間違いなく儲かるって売りつけた金融商品がパーになって起きたんですよ」
女主人は顔をしかめた。
「……いややわあ。そんな物騒なこと言わんといて」
「物騒なことはね、物騒なことが起こる前に言わないと意味ないの」
「そら、そうかもしれへんけど。でも、そうなったらほんまに困るわ」
「俺もお姉さんが困るのを見るのは忍びない」
だったら、さっさと店を出ればいいじゃないか、と和久井は思った。
「とにかく、投資信託なんてものは、人生あと十年かなってくらいの晩年になってからやればいいのよ」
「そうやろか」
「そうだよ」
「じゃあ、定期預金にとこかな」
「なに言ってんの、お姉さん、こんな低金利の時代に、いくらも増えないよ」
「そんな暗いことばっかり言わんといて」
女主人はむくれたが、お姉さんを連呼されて、ガードが下がっているのは明らかだ。