・和久井健太(わくい・けんた)
京都にある洛中信用金庫に就職。入社三年目を迎え、北大路支店の営業部に配属されるも、引っ込み思案がわざわいして、苦戦。最近自分がこの仕事に向いているのか悩んでいる。
一時間後、しだれ桜をバックに観光客が自撮り棒を突き出している横を抜けて、賀茂川の岸辺に降りていった和久井は、ぼんやりと川面を眺めた。
そして、店に戻ったらどうやって田中主任に報告しようかと頭の中で色々シミュレーションしてみたが、どのバージョンもうまくいきそうに思えなかった。
和久井は腰を上げて川岸の道に上がった。そして店に戻るべく、川沿いを重い足取りで歩いた。
ふと見ると、見慣れない喫茶店ができている。いつのまにかオープンしていたらしい。くそっ、オープンの費用はどこで融資を受けたんだろう? すぐにそんな方向に連想呼び起こされてしまうのが、金貸し業の性である。
そういえば、今日は店へ配達してもらう弁当を予約していなかった。洛中信金は、昼食は配達される弁当を店の休憩室で食べる決まりになっている。しかし、外回りのついでに「本日は外で食べます」と先に報告していれば別だ。逆に、そうしてしまうと、店に戻っても食べるものはない。
「金を取ってこの味は、いくらなんでもあんまりだ」
和久井は喫茶店のドアを押した。
ぎょっとした。昼時だというのに、客はひとりしかいない。
店の隅で、うらぶれた中年のオヤジが、新聞片手にスパゲッティをフォークに巻き付けている。嫌な予感がした。
「いらっしゃい」
でっぷりと太った女主人が、テーブルに水の入ったコップを置いた。
「パスタランチ?」
「え」
「パスタランチがオススメやねん」
「ああ」
「パスタとサラダとデザートにコーヒーがついて九百八十円」
「ほかには?」
「それしかないねん」
「ああ、じゃあパスタランチください」
「グッドチョイスやね」
選択肢がないのだからチョイスじゃないよな、と思いながら和久井は水を飲んだ。
そして、嫌な予感は当たった。
出てきたのは、見るからにぶよぶよした麺にトマトケチャップを適当に振りかけただけのナポリタン。この皿の横に小さなガラス容器があり、和風ドレッシングをかけたキャベツの千切りに細切りピーマンが混じったクズ野菜が入っていて、どうやらこいつがサラダらしい。そしてデザートは小鉢に盛られたヨーグルトである。これは市販のものを器に移しただけだろう。
それでもパスタがうまければ我慢できた。しかし、和久井は一口ほおばってフォークを置いた。
まずい。
金を取ってこの味は、いくらなんでもあんまりだ。開店したのはいいけれど、これは遅かれ早かれつぶれるな。和久井はそう思った。こんな食い物を出して、味にうるさい京都でやっていくのは難しいだろう。この店に融資しなくてよかった、と和久井は今度はほっとした。
あまりのまずさに、和久井は再びフォークを取る気になれなかった。
すると、店内にいたただひとりの客と目が合った。
斜め向かいの席から、楊枝(ようじ)を使いながら、オヤジがこちらを見てニヤッと笑った。
その笑いは、まるで「まずいよな」と連帯のサインを送ってきているようにも思えた。
どう反応していいのかもわからず、目をそらした和久井は、クズ野菜とヨーグルトをやっつけた。それからもう一度パスタに挑戦してみたが、ふたくち目で心が折れた。
和久井は手を上げた。
「コーヒーください」
はーい、と女主人が明るい声を出した。それは潤いのある美声だった。この時、またオヤジと目があった。あいかわらずニヤニヤしながら、今度はやれやれという具合に首を振った。だんだん気味が悪くなってきた。
和久井は鞄から商売用の資料を取り出すと、表紙をじっと眺めて、オヤジの視線を遮った。本来は、金融業に従事する者は、機密保持などの危険を避けるために、外出先で業務書類を安易に広げたりしてはならない。それは和久井も知ってはいたが、表紙くらいならかまわないだろうと甘えが出た。
そして、トレイを前に押し出すと、空いたスペースに商売用の資料を鞄から取り出して、オヤジの視線をそらすようにしばし眺めた。