・和久井健太(わくい・けんた)
京都にある洛中信用金庫に就職。入社三年目を迎え、北大路支店の営業部に配属されるも、引っ込み思案がわざわいして、苦戦。最近自分がこの仕事に向いているのか悩んでいる。
・児玉香津美(こだま・かつみ)
京都の老舗佃煮店「こだま屋」の五代目社長。担当が和久井に代わったのをきっかけに、金利の低い大手都市銀行の住菱銀行への借り換えを通達してきた。
翌日、支店にいったん入ると、すぐに出て、こだま屋に向かった。田中光男営業主任に昨日の電話の件を打ち明けて指示を仰ごうかと思ったが、こだま屋の主人には、できればなんとか手を打って、借り換えを思いとどまってもらいたかった。
仁科大先輩が大事に囲い込んできた顧客に、櫛の歯が抜けるように、一件また一件と借り換えを決断される。この事実をそのまま報告したのでは、私には能力がありませんと申告しているようなものだ、和久井はそう考えた。
濃い藍色に〈京佃煮こだま屋〉と白抜きに描かれたきれいな暖簾が、店先にかかっている。和久井はまず、この暖簾から発せられる独特の威圧感にたじろいだ。
「社長はいま、お留守です」
本店の玄関先で取り次ぎに出た店員は、和久井からどことなく視線をそらし気味に、そう言った。
「あの、いつ戻られますか」
「さあ、聞いてませんさかい、わかりまへんなあ」
おかしい。午前中に住菱銀行を呼ぶのではなかったのか。
「では、また来ます」
和久井は、いったんこだま屋を出て、近くの喫茶店で小一時間ほど時間をつぶしてから、またこだま屋に出向いた。
「あまり無粋なことはせんといてくれはりますか」
小路を歩いていた和久井は立ち止まった。
こだま屋本店の玄関先の暖簾を分けて、スーツを着た男がふたり出てきたからだ。ふたりは振り返ると、玄関に向かい、深く頭を下げた。
銀行屋だ。住菱銀行にちがいなかった。
「まあ、あんじょう頼みます」
のっそりと玄関先に姿を現したのは、こだま屋の五代目社長・児玉香津美(こだまかつみ)さんである。京家の旦那らしく、着物姿だ。
「このたびはありがとうございました。どうぞよろしくお願いします」
年配のほうが、また頭を下げた。
「いやいや、こちらこそよろしゅう頼みますわ」
旦那は、にこやかに言った。
「天下の住菱さんやから、大船に乗ったつもりでおりますよって」
銀行員ふたりはもう一度頭を下げて、踵を返し、和久井のほうに歩いてきた。
そのとき、ふたりを見送るこだま屋の主人と和久井の目が合った。
主人は怒りと軽蔑が混ざった眼差しを和久井に投げると、ゆがんだ笑いを残して、背中を向けた。
「あの……」
と和久井は思わず声をかけた。しかし、和久井はこのあと、どんな言葉を継ぎ足せばいいのかわかっていなかった。
その先を制するように、主人の声が聞こえた。
「あまり無粋なことはせんといてくれはりますか」