「少しのあいだ、実家に戻ろう」

Aさんは現在43歳、一人暮らしです。進学を機に地元を離れてから、気づけば25年が経っていました。数ヵ月前、勤めていた会社が業績悪化で事業縮小を発表し、配置転換の打診を受けました。新しい部署か、希望退職か――。人生の岐路に立ったとき、ふと頭に浮かんだのが実家でした。

「いったん母のいる実家に戻って、落ち着いて考えよう」Aさんは久しぶりに地元へ帰ることにしました。

親とは長らく疎遠になっており、頻繁に連絡を取り合っていたわけではありません。母親からたまに電話がかかってくることもありましたが、仕事の忙しさを理由に「また今度」といって短く切り上げることが多く、自分から連絡することはほとんどなかったのです。

3年前、父親が亡くなった際、葬儀に顔を出しました。母親は「これから一人になるから」と寂しそうにいいましたが、Aさんは「なにかあったら連絡して」と返しただけでした。それ以来、ろくに連絡を取っていません。それでもAさんの心のどこかには、「実家はいつでもそこにある。困ったときには帰れる場所だ」という思いがあったのです。

ところが、なつかしい道を歩いてたどり着いた実家の前で、Aさんは絶句します。目に飛び込んできたのは、見慣れた玄関先の「売物件」という看板。家の中はカーテンすらなく、生活の気配は消えていました。

驚いて母親に電話をすると、予想外の答えが返ってきます。「帰ってきたの? ……いってなかったんだけど、私は施設にうつったのよ。心配かけると思ってね。家は売ったから」。

そのとき初めて、Aさんは気づきました。実家がもう自分の「帰る場所」ではなくなっていることを。スマホを握る手が震えるのがわかりました。