心と体のギャップ

「自分は何歳まで生きたいのか、生きられるのか、といったことを考えもしないまま今日まで来たので、100歳まで生きられる時代と聞いても、最初は『100歳まで生きて何をするんだろう?』ぐらいにしか思わなかったのです」

「それは、自分が老人であることをあまり意識しないで(あるいは考えないようにして)来たからなのですが、70を過ぎたあたりから疲れやすくなり、冬になると膝や腰が痛くなり、左目が緑内障にもなって、病院に行くことが多くなりました。自分が老人であることを、否が応でも意識せざるを得なくなったのです」(末井昭『100歳まで生きてどうするんですか?』中央公論新社、2022)

1948年生まれの末井は、この本を書いたとき73歳である。「この年になるまで、自分が老人であるとか、いつ死ぬだろうかとか、まったく考えたことがありませんでした」このとき、末井は、自分では「36歳」のつもり、と書いている。けっこう、図々しいねえ。

わたしはとても「36歳」の自分の想像はできないが、50歳前後という錯覚ならもてそうである。だが、こんな図々しい錯覚を、あっさりとひっくり返してくれるのが、老体の悲しむべき現実である。この心と現実のギャップほど、残酷なものもない。

70歳を超えると(じつは60頃から始まっている)、あきらかに老人の体になっているのだ。いやだねえ。見た目の衰えもそうだが、じつは、体の中の衰えのほうが深刻である。

わたしの場合、定年退職してからは、体を鍛えるということはほぼなにもやっていない。ここ半年ばかり、歩いていない。以前は1日1万歩など平気だったのである。やめたわけではない。一時的休止、のつもりだ。自転車にはまだ乗っているが、町中乗りで、筋肉維持には役に立っていない。

40代のときなど、信号が黄色で点滅していても、ダッシュで渡ってもまったく問題はなかった。遅刻しそうになると、駅から会社まで、全力疾走しても平気だった。

ところが現在はどうか。そもそも寝ている状態から起きるとき、さっと1回で起きられない。座ってる状態から立ち上がるとき、椅子はまだいい。畳から立ち上がるとき、畳や食卓に手をつかないと、立ち上がれないのである。

若くて元気なとき、どうやって立ち上がっていたのか、すっかり忘れてしまった。意識する必要がなかったからだ。服を着替えるとき、片足立ちになるときによろける。ふらつく。歩く。まっすぐに進まない。走るのはだめ。それでも自転車にはまだ乗れる。しかし細い道路の場合は自信がない。こてん、と倒れることがある。

女子高生に2回、「大丈夫ですか?」と声をかけられた。これは、きまりわるいよ。ざまはないのである。

勢古 浩爾