誰にでもある、実年齢と本人の意識のギャップ。 じつは、「今のおじいさんは、自分を老人とは思っていない」のだ――。自らもシニア世代の勢古浩爾氏(執筆当時77歳)の現代の老人に対する考察とは? 著書『おれは老人? 平成・令和の“新じいさん”出現!』(清流出版)の一部を抜粋・再編集してご紹介しよう。
「おれはおれ」と考えることが新しい
現代の老人はひとりでいるとき、80になっても90になっても、自分が老人だとは思っていないということがわかった。老人のようで老人ではない、老人ではないのに老人だ。この南京玉すだれ状態の不思議な生き物は、いったいなにか。
養老孟司は、ひとりでいるときは自分が老人と思わない、と気持ちよく明言していた。これが現代の老人の真実である。というより、人間の真実である、といいたいところだが、そこまでいいきる自信はない。明治時代に八十代をすごした老人がそういってくれれば助かるのだが、そこまで確かめることはできない。
しかし人間がひとりでいるとき、かれは何者でもないかもしれない。老人だけではない。若者も、ひとりでいるとき、「おれは若さピチピチだ」と思うわけがない。ひとりでいるとき、おれは男だ、と思うバカ者がいるか。おれは偉い。おれは会社員だ。おれは強い、などと思うわけがないのだ(いや、いるのか?)。でもまあ、そのことはとりあえず置いておこう。
ともかく現代の老人である。南京玉すだれ状態の不思議な生き物について、南伸坊はこういっている。「一人じゃわからない。自分はずーっとつながってるから『おれはおれ』なんですね」といまにして思えば、じつに正しいことをいっている。わたしの場合も、ひとりでいるときはたしかに、「おれはじじいだな」と思わないのだった。
ではどういう感覚かというと、たしかにずっと「おれはおれ」なのである。「おれ」という意識だけが、子どもの頃からずっとつづいている。その「おれ」が、中学生になり、大学生になり、成人になり、中年になり、初老になり、いまや後期高齢者になっている。しかし、中心にあるのはいつも「おれ」(自分)なのだ。そこには若い自分も、老いた自分もないのである。
この「おれ」(自分)をもっと微細に観察していくと、どこかで「考える葦」とか、「我思う、故に我あり」とか「自我」なんかにつながっていきそうな感覚があるのだが、面倒くさいことになる前に、やめておこう。
たぶんこの「おれはおれ」という意識が新しいのだ。もしかしたら昔の老人も、ひとりでいるときは、別に老人という意識はなかったなあ、というかもしれない。しかし「おれはおれだ」とは考えなかったのではないか。
この意識が、「おれは老人だ」とか「いい年をして」とか「年相応に」とか「老いらくの恋」とかいう、老いの否定的側面よりも上回っている。「おれはおれ」は世間と接触することによって、すぐ「おれは老人」にひっくり返る。しかし、たとえひっくり返ったにしても、現代の老人が住む世界は、昔の老人が住んでいた世界とは、まるでちがう別世界だ。
テレビが出現したときも、世界は変わったはずである。昔は一家に一台、電話を引くことが大変だった。だが、いまでは一人ひとりがもっている。ばかでかいコンピュータもいまではスマホに入っている。テレビもネットや動画配信によって取って代わられつつある。
老人の自分がひとりでいるとき、「自分は老人だ」とは思わなくなった老人。「おれはおれ」と考える老人、それは新しい老人である。住んでいる世界も、50年前と完全にちがった世界に住んでいる現代の老人(もちろん老人だけではない)。
一見すると、見慣れた、なんの変哲もない老人だが、なにからなにまで現代的形態だ。現代の老人は、老けたエマニエル坊やである。けれど一言いっておきたい。
新しいが、けっして、偉いわけではないということだ。
勢古 浩爾