動物園の象の檻の前でヴァイオリンを披露

母はそれなりにきちんと教えようとしたようだ。厳しくはなかったけれど、毎日弾くという習慣がついたのは母のおかげだろう。父はただただ自由に弾かせてくれて、歩きながら弾いても怒らなかった。私がヴァイオリンの中にかっぱえびせんを入れてカラカラ鳴らしていても、父は笑っていた。

「ヴァイオリンが弾けると世界中の人とお友だちになれるよ」

両親はよくそう言っていた。

だったら動物ともしゃべれるだろうか。4歳の頃、動物園に行くときにヴァイオリンを持っていき、象の檻の前で弾いてみた。象は何も反応してくれなかったらしいが、記憶にない。両親が幾度となく披露する定番の笑い話だ。

ただ、なぜ象の前で弾いたのか、そのときの自分の気持ちが少しわかる。象は動物園で一番大きいからだ。テレビでウルトラマンやウルトラセブンを見始めた時期だったので、大きい動物を怪獣だと思っていたのかもしれない。我ながらアホだなあと思うが、両親は止めなかった。飼育員も止めないのだから、おおらかな時代だ。

両親は「象にヴァイオリンがわかるわけないだろう」とか「恥ずかしいからやめなさい」などとはけっして言わない。大人は結果を知っているから、つい先回りしてしまうが、子どもにはいろんなことを経験させた方がいい。

うちの両親は、プロの演奏家を育てるために教えているわけではなかった。あくまでも専門は幼児教育。子どもたちに音楽を楽しんでもらいたいと願っていた。実際、うちに習いにきた人たちは、別の職業についても、アマチュアとして楽器演奏を続けている人が多い。

「この子をヴァイオリニストにさせたいんです」と主張する親に、うちの父はこう言っていた。

子どもは3歳までに十分親孝行が終わっている。生まれてから3歳まで、あなたは子どもをなめたり、着せ替え人形にしたり、いっぱいおもちゃにして楽しんだでしょう。でも子どもにも自我が芽生える。意志を持つようになる。これからあの子はあの子自身のために育っていくんです

両親が私を音楽家にしたかったかどうかはわからない。だが、将来のことは何も言われたことはなかった。

「そんなことってあるんですか?」とよく言われる。家が音楽教室なので、たしかに音楽家になるための環境は整っていた。でも親からは何も制限されなかったし、強制されることもなかった。

「練習しないとうまくなれないよ」と、厳しく言われていたら、私の性格上、反抗してやらなかっただろう。練習を放っぽりだして外に遊びに行ってしまったにちがいない。
 

篠崎 史紀
NHK交響楽団特別コンサートマスター/九州交響楽団ミュージックアドバイザー