「人生のピークは18歳。東大に合格したとき」という、しんめいP。32歳で無職になり、離婚して、実家のふとんに一生入ってると思われた彼が自身の“虚無感”をなんとかしようとしてたどり着いたのが「東洋哲学」でした。そんなしんめいPによる著書『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版/監修・鎌田 東二)から、東洋哲学の哲学者を紹介します。第2回目は、自分探しのために6年間苦行に耐えたブッダが悟りを開くまでの物語です。
悟りを開いたきっかけは「ギャルが持ってきた一杯のおかゆ」…自分探しに明け暮れていたブッダがたどり着いた〈本当の自分〉の答えとは?
自分とか、ない。
悟った、ということは、「本当の自分」の答えが見つかったということである。
いったい、どんなものなのか?
その答えは
「無我(むが)」
だった。
自分とか、ない。
なかったんだってさ。
いやいや、ないって? ここにあるやん? どういうこと?
ひとつたとえ話をしよう。ぼくは家がゴミ屋敷なので、すぐモノがなくなる。
ある日、どうしてもサッカーの日本代表戦をみたくて、テレビのリモコンを部屋中探したのだが、見つからない。2時間探してもみつからず、試合が終わってしまった。悔しかった。
しかし、翌日気づいた。おれ、そもそもテレビ持ってなかった。
ホラーである。
仕事がきつくて頭がおかしくなってた。
探していたリモコンは、そもそも存在しなかった。
「ない」ものを探すことは、完全にムダで、おそろしい苦しみだった。
「自分」がない、のだとしたら、「自分探し」はそりゃ苦しいはずである。