司法省民事部で働いた「下積み時代」に三淵嘉子が得たもの

桜田門(さくらだもん)南方の桜田通りには戦前から司法省と大審院、海軍省などが並んで建っていた。いずれも明治期の官庁集中計画により整備された庁舎で、赤煉瓦(あかれんが)の建造物が連なる眺めはじつに壮観。旧司法省庁舎は現在は法務図書館等に使用されており、東京駅と雰囲気がよく似たネオ・バロック様式の建物は「霞(かすみ)が関(せき)の女王」と呼ばれている。

その建築美は通りを歩く人々の目をいまも楽しませているのだが、嘉子が勤務していた頃の眺めとはかなり違う。

戦時中には霞が関周辺の官庁街も激しい空襲を受けた。多くの庁舎が爆弾で破壊され、司法省庁舎も被災している。当時はまだひどい状況だった。屋根や床は焼け落ちて赤煉瓦の壁だけが残り、まるで廃墟(はいきょ)のような眺めだったという。敷地内には瓦礫(がれき)の隙間に急ごしらえで粗末な仮庁舎が建てられていた。

嘉子は痛々しい戦争の爪痕(つめあと)が残る庁舎で、新しい民法の立法作業などを手伝うことになる。法律を学びはじめた頃、戦前の民法下では女性の地位があまりに低いことを知り愕然(がくぜん)となったものだ。自分が裁判官になれなかったのも、既婚女性を就労の自由がない「無能力者」としていた民法のせいだ。それだけに、男女平等の新しい民法ができることを喜び、その仕事に参加していることに誇りを感じていた。

また、この仕事を通じて多くの裁判官と話す機会にも恵まれて、先輩たちから裁判官のあり方や裁判の進め方などについても学ぶことができた。

「この間に学んだものが、その後の私の裁判官としての生き方の根幹になったと思う」

後になってから彼女はこのように語っている。有意義な時間を過ごしていた。

しかし、司法省に勤務して学ぶように言われた時には、かなり腹を立てていたようである。自分は司法科試験に合格した有資格者であり、弁護士としての実務経験もある。何をいまさら司法科試験に合格したばかりの者と同じに扱われて、研修のようなことをせねばならないのか、と。

だが裁判官になるにはそれに従うしか方法はない。まあ、給料が出るだけでもマシ。そう思って我慢したのだが。結果的には、短気を起こさずに坂野の言うことに従ったのは正解だった。

闇雲に突っ走るだけではない、立ち止まってよく考え我慢することもできるようになっている。彼女は戦時下で辛酸を舐(な)め成長していた。

青山 誠

作家