三淵嘉子が「資格」を有していてもすぐには裁判官になれなかったワケ

役人の説明を聞いた嘉子は、日本に女性裁判官が誕生する日は近いことを確信するようになった。男女平等を保障した日本国憲法のもとで、それには不具合な戦前の民法はまもなく改正されるだろう。妻が自分の意思で自由に働くことができるようになれば、女性裁判官の採用を阻んでいた障壁は取り払われる。

弁護士の研修を終えてその資格を有している者ならば、裁判官や検事になることもできる。

「自分には裁判官になれる資格があるはずだ」

と、長い眠りから覚めた嘉子は、出現した目標に向かって突き進む。憲法が公布されてから約4ヵ月後の昭和22年(1947)3月、彼女は民法の改正を待たずに司法省人事課に出向いて裁判官採用願を提出している。

戦前から三権分立の原則はあったのだが、裁判所の人事を含めた司法行政権はすべて司法省が握っていた。司法省でも日本国憲法に男女同権が明記されていることの意味、それは当然理解している。しかし、裁判官採用願を出してきた女性は嘉子がはじめて。これをどう処理したらいいものかと、人事課の担当者は悩んだようだ。

頭では理解しても、はじめてのことには腰が引けて実行をためらうのが役人気質である。自分では判断することができず、東京控訴院長の坂野千里(ちさと)に嘉子を面接させることにした。

控訴院は旧憲法下の裁判所のひとつで、現在の高等裁判所に相当する。そちらに委(ゆだ)ねたのである。そして、彼女を面接した坂野院長は、

「女性裁判官が任命されるのは、新しい最高裁判所の発足後のほうがいいでしょう。しばらくの間は、司法省の民事部で勉強しなさい」

との判断を下した。女性裁判官の任用には時期尚早ということか。

新しい憲法にあわせて裁判所法の改正もおこなわれている。大審院を廃して最高裁判所を設置し、司法省が持っていた司法行政権は最高裁判所に移管されることになっている。裁判所を司法省から独立させて、三権分立の原則を完全に機能させるための措置だった。

戦前は全国7ヵ所の控訴院の他に司法省裁判所、司法省臨時裁判所、府県裁判所、区裁判所など様々な種類の裁判所が置かれていたのだが、こちらも最高裁判所を頂点に高等裁判所、地方裁判所及び家庭裁判所として整備再編されることになる。その作業で司法省や大審院は大忙しのようだった。女性裁判官を配属すれば、その対応にも追われるだろう。この時期にそんな面倒事は避けたい。

また、嘉子のスキルも疑問視されていたようだ。司法官試補の研修を受けていない者をいきなり裁判官に任命するわけにはいかない。まずは司法省民事部で仕事をして、裁判官に必要な知識を身につけてもらう。そうするうちに、裁判所の整備事業もひと段落して、女性裁判官を受け入れる余裕もできるだろうということか。

嘉子は昭和22年(1947)6月から司法省民事部に勤務するようになる。