喧嘩も多かったが、みんなから好かれていたワケ

積極的で人見知りをしない、コミュニケーション能力も高い。当然、友人は多くなる。友人たちとは仲良く語らうだけではなく、口喧嘩()もよくしたという。

正義感がやたらと強いうえに、数学の解答と同じで何事においても白黒をはっきりとつけたがる。自分が納得できないことには、テキトーな相槌(あいづち)を打ってお茶を濁すようなことはしない。とことん相手を追及してしまうことがよくあり、その結果、つい口調が激しくなって口論に発展してしまう。

頭の回転が早く口がよくまわる嘉子なだけに、口喧嘩では誰にも負けない。弟たちが恐怖するゴッド・シスターは、学校でも無敵だった。

しかし、言い負かされても彼女を憎むような者はいなかった。決着がつくと嘉子はすぐ笑顔になって、ふだんと変わらぬ態度で接してくるものだから、「あれ? なぜ私たちは喧嘩していたのだろう」 と、相手もそのペースに乗せられて笑顔になってしまう。

いまも昔も、日本人は欧米人と比較して人と争うことを避ける傾向が強いと言われる。言い争いになりそうな時は口をつぐむ、また、その話題に触れぬよう話題を変える。

我慢ができずに一度やりあってしまえば、その後、関係を修復することができず、シコリが残りつづけることになる。仲直りが下手くそな民族、それを知っているから争いにならぬよう感情を抑えて言いたいことを我慢してしまう。

それが普通なのだ。が、嘉子はこのあたりの感覚が日本人離れしていた。「それはそれ、あれはあれ」と、論争とその他のことを分けて考えていたようである。また、口喧嘩も歌やダンスと同じで、友人たちと一緒に楽しむレクリエーションのひとつと思っていたふしもある。

この頃、嘉子たち一家は麻布(あざぶ)(こうがい)(ちょう)に住んでいた。青山霊園の南方、現在の南青山や西麻布のあたり。江戸()時代は大名屋敷や身分の高い旗本たちの居住区で、維新後も富裕層が多く住んでいた。

笄川が流れる低地から高台に向かってつづく坂に沿って、広い庭のある家々が建ちならぶ。木々の枝葉が風にそよぐ音が聞こえるほどに、通りは静寂につつまれていた。隙間なく長屋が密集する喧騒(けんそう)の下町エリアとは、同じ東京市中でも街の景観や雰囲気がまったく違う。昭和初期に発行された『火災保険特殊地図』を見ると「武藤貞雄」の名が記された家が「笄町157」の地番にみつかる。玄関は市電の軌道が走る通りに面しており、「笄町」の停車場とは目と鼻の先。隣近所の家と比べて家屋が2〜3倍ほど大きく描かれている。また、庭もゆったりと広い。

この高級住宅地でもひときわ立派な屋敷だったことが、当時の詳細地図から見て取ることができる。

青山 誠

作家