名門女学校で学ぶ才媛のお嬢様なのだが……

東京女子高等師範学校と附属高等女学校は関東大震災で校舎が焼失したのを機に、数度場所を移り、御茶ノ水から小石川区(こいしかわく)大塚町(おおつかまち)に移転した。現在、その場所はお茶の水女子大学と大学の附属高校にそのまま継承されている。

湯島3丁目にあった仮校舎の時は、女学校の正門を入り石段の脇にあるスロープを上ると、3棟の本校校舎が一列に並んで建っていた。その左隣には特別教室棟、講堂などの建物が隙間なくならぶ。

女子の最高学府というわりには附属女学校のほうは粗末な木造校舎が多く、また、附属小学校や幼稚園なども同居しているために敷地は手狭で少し窮屈な感じがする。それでも、この学校に通っていることは、本人はもちろん、家族や親類縁者にとっても誇らしく、隣近所には自慢のタネにもなる。

嘉子も合格通知をもらった時には小躍りして喜び、その制服を着て街を歩くことが誇らしかった。毎日、学校に通うのが楽しくてしょうがない。そんな彼女の学園生活はどんなだったか? 見てみよう。

校庭の片隅にはクローバーが繁る小高い丘があった。放課後や昼休みにクラスメートが集まり、思い思いのひと時を過ごす憩いの場。生徒たちの間では「センチが丘」と呼ばれ、静かに文学のことや人生について語りあう。それには似合いの雰囲気があったという。

才女の集まる難関校だけに、思慮深げな文学少女が多かったようだ。が、そんな校風のなかで、嘉子は少し異彩を放つキャラクター。大きな声でよく笑い、センチが丘の静寂をかき乱すこともしばしば。宝塚

)少女歌劇の大ファン、男優の真似をして即興劇を演じ、豊かな声量で歌を披露することもあったという。

休み時間だけではない。体育の授業でも自分で振り付けを考え、クラスの仲間たちを先導して創作ダンスを踊ったことがある。また、1年生の時に卒業生を送る謝恩会の劇では主役を演じ、それが学内で大評判に。上級生たちの間でも名を知られる存在になっていた。

何かをやる時は、いつも彼女が率先して動きその中心で活躍した。「お声が澄んでいてセリフがよく通り、また、歌もお上手でした」学友が証言する。

現代でも女子校では、女同士の疑似恋愛で同級生や先輩に恋焦がれたりするものだが、男女交際に厳しくチャンスのほとんどない当時には、その傾向がもっと強かったかもしれない。目立つクラスのリーダーでかなり男前な性格だった嘉子も、きっと同級生や後輩にモテたことだろう。

お転婆ではあるが、学業成績のほうも飛び抜けて優秀。才女が集まる学校のなかで、こちらでも目立つ存在だった。なかでも数学は大の得意科目だったという。何事も白黒をはっきりつけたがる性分、正解と不正解がはっきりとした科目のほうがしっくりとくるようだった。