スポーツカーの開発において、「エコ」との折り合いをつけていくことは不可避です。「燃費しか追求していないように見えるハイブリッド車の技術も、レースの現場で磨かれた先端技術が降りてきてこそ燃費が向上する」と、自動車評論家の鈴木均氏はいいます。鈴木氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、2000年代の日本車の開発事情について、詳しく見ていきましょう。
トヨタのF1参戦
21世紀に突入した当初は、エコの時代が来た、日本車の時代が来た、という空気があった。だが21世紀の最初の10年の後半になると、日本がグローバルな最先端から置いていかれるようになった。風向きを反転させる試みを、トヨタのF1参戦とアメリカでのリコール「問題」をとおして振り返ろう。
『トヨタ・モータースポーツ』のホームページによれば、F1参戦の決断は1999年、奥田碩社長まで遡るものであり、新しく登場したハイブリッド車の売り込みと同時期だった。パナソニック・トヨタ・レーシングは、WRCやル・マン24時間耐久レースに参戦するための拠点だったドイツのケルンを本拠地とした。
80年代にホンダがF1に参戦したときのように、通常、自動車メーカーが参戦するときは、経験豊富なコンストラクター(80年代のホンダの場合はマクラーレン)とタッグを組むのが普通だ。トヨタはイチから自らF1参戦チームを創設するという、新しい大きな挑戦に出たのである。
2002年に初参戦した際のマシンTF102は、3000㏄のV10エンジンが835馬力を発生し、車重は600キロだった。昭和の時代の軽自動車ほどの車重に、軽のエンジンを12基ほど積んだような怪物である。初年度は苦戦するかに思われたが、開幕戦のオーストラリアGPで6位に入賞した。
当時参戦チームのなかでも屈指の予算を誇り、2005年にミハエル・シューマッハの弟、ラルフがチームに加入して過去一番の戦績を残した。マレーシアGP、バーレーンGPで2位となり、チームに初の表彰台をもたらした。日本GPでは予選最速、本戦をポールポジション(先頭の1番枠)からスタートし、チームを年間コンストラクター4位に押し上げた。
2009年シーズンが終了した後の11月、その5ヵ月前に社長に就任したばかりの豊田章男は会見を開き、コスト削減とエコカーの開発に専念するとし、F1撤退を発表した。
前年には2000年から再参戦していたホンダも撤退していたが、背景には2008年9月に端を発するリーマン・ショックと世界的な金融危機があった。2009年の日本GPではヤルノ・トゥルーリが2位で完走し、初めて日本GPで日本のメーカーが表彰台に上ることになったのだが、トヨタは同年に59年ぶりの赤字を計上していた。
撤退会見でF1チームの責任者は、「(環境を重視した)プリウスだけのレースがワクワクするかと言えば、そうではないと思う」と悔しさをにじませた。「その」プリウスで培ったシステムを武器に、トヨタはル・マンで他日を期すことになる。
トヨタのF1参戦は、唯一無二の鬼子を産み落とすこととなった。撤退直後、2009年の東京モーターショーでお披露目された、レクサスLFAである。
ヤマハと共同開発したエンジンは排気量こそ拡大された4800㏄、最高出力は560馬力だが、F1と同じV10で、TF102に近い。車重を徹底的に軽くするため、車体は豊田自動織機と共同でカーボン(炭素繊維)で開発され、元町工場の職人たちの手で一日一台、組み立てられた。
LFAは2010年から2年間、わずか500台が生産され、37万5,000米ドル、国内では3,750万円で発売された。最高速度325キロを誇り、見た目も性能も圧倒的なLFAは、当時F1のトップ・ドライバーだった英ルイス・ハミルトンに「最も欲しい車」として指名された。すでに生産を終えて10年経つが、レクサスのホームページには今も「Fシリーズの頂点」としてLFAが掲載されている。極上のコンディションの中古車は、アメリカのオークションで78万米ドル(8,500万円)で落札されている。
鈴木 均
合同会社未来モビリT研究 代表