雑誌『Hanako』が牽引した「ティラミス」ブーム

バブル期を象徴するスイーツといえば、ティラミスです。2018(平成30)年に放送された朝ドラ『半分、青い。』(NHK)で、バブル期に東京へ出た主人公を、母親が訪ねてくる場面がありました。漫画家修業中だった娘の師匠は、母親に気を使ってイタリア料理のレストランのチケットを渡します。岐阜の小さな町に住んでいた母親にとって、初めて話題のティラミスを食べたことは、長年の思い出になっていました。

ティラミスブームのきっかけは、『Hanako』(マガジンハウス)1990年4月12日号で、「イタリアン・デザートの新しい女王、ティラミスの緊急大情報 いま都会的な女性は、おいしいティラミスを食べさせる店すべてを知らなければならない。」という煽情的な見出しで、レストランを紹介したことです。

また、『女性自身』(光文社)も同年4月17日号で、ティラミス特集をしています。影響力のある情報誌と全国誌がほぼ同時に取り上げたことで、ブームは一気に盛り上がっていきます。ほかのメディアも追随し、ティラミスに使われるチーズは、「マスカルポーネ」ということや、イタリア語の名前は「私を元気にして」という意味であるといった、周辺情報も伝播しました。

当時、イタリア料理はブームの真っただ中でした。フランス料理の流行は、本場で修業した料理人たちが最先端のヌーベル・キュイジーヌを持ち帰ったことがきっかけで始まりました。ヌーベル・キュイジーヌはヨーロッパを中心に広がり、各地の料理に革新を起こしていきます。

遠いところでは、香港でもヌーベル・シノワが起こっています。当時の香港はイギリス領で、欧米人がたくさん住んでいたことも、新しい中国料理が生まれる要因だったかもしれません。ともかく、料理を現代的により軽いものにし、より鮮度が高い食材を使う、といった形で刷新するムーブメントはヨーロッパを中心に広がり、イタリアでも、ヌオーヴァ・クチーナと呼ばれるムーブメントが起こっています。

その中へ、日本の料理人たちも修業で訪れています。帰国した彼らを中心に、斬新なスタイルのレストランが続々と誕生します。

『日本イタリア料理事始め─堀川春子の90年』(土田美登世、小学館、2009年)によると、約100坪もあるすり鉢状の店内の中央にオープンキッチンをしつらえ、カウンターに取れたての魚介類を並べた「バスタ・パスタ」は、原宿で1985年に開業しました。1989年に恵比寿で開業した「イル・ボッカローネ」は、イタリア人のホールスタッフらが、「ボナセーラ」とイタリア語で挨拶しました。派手な演出で盛り上げる店が東京に次々と誕生したことも、人気を呼んだ要因でしょう。

お笑いコンビのとんねるずが、おもしろおかしくテレビ業界の話をしてウケていた時代です。その前からパスタブームが訪れていたこともあり、イタリア料理は、業界人っぽく「イタ飯」と呼ばれて大流行しました。

当時、赤坂の「グラナータ」TBS店の料理長を務めていたのが、のちに銀座に店を持ちお値打ちイタリアンを出す落合務です。『日本のグラン・シェフ』(榊芳生、オータパブリケイションズ、2004年)によると、1989年のクリスマスに一日で500万円を売り上げる伝説をつくりました。ですから、雑誌が特集する前にも、イタリア料理を堪能した人たちは、ティラミスを知っていたのです。

『ファッションフード、あります。 はやりの食べ物クロニクル1970-2010』(畑中三応子、紀伊國屋書店、2013年)によると、レストランのデザートだったティラミスを、洋菓子店がこぞってテイクアウトできる洋菓子として売り始め、アイスクリームショップ、ファミレス、ファストフードのメニューにも登場します。

『Hanako』特集から半年後には北海道の原野にある喫茶店でも、ティラミスを売るようになっていたそうです。ブームにあやかろうと、1991年には大手メーカーがこぞってティラミス味の食品を売りました。チョコレート、菓子パン、ドリンク、キャンディーなど。なぜか、コロッケやスープ、テリーヌなどの食事メニューでも、マスカルポーネチーズを使ってティラミス味と、謳う料理が登場したそうです。

舞台裏を描いた『銀座Hanako物語』(椎根和、紀伊國屋書店、2014年)によると、当時ニューヨークでティラミスが大流行していたことから、女性編集者が発案した企画だったそうです。この編集者はその後、数々のスイーツを特集し、ブームに火をつけていったともあります。確かに、1990年代にはたくさんのスイーツが流行しました。