2021年のカンヌ国際映画祭で日本初の脚本賞に輝いた、映画『ドライブ・マイ・カー』。国内外で高く評価された同作品で効果的にクラシック音楽が使用されています。著書『生活はクラシック音楽でできている 家電や映画、結婚式まで日常になじんだ名曲』(笠間書院)から、音楽プロデューサーの渋谷ゆう子氏が、名曲に隠された作曲家の人生や時代背景を交えながら解説します。
西島秀俊演じる主人公が〈妻の浮気〉に遭遇したときにかかっていた音楽の意味は…クラシック音楽からひもとく映画『ドライブ・マイ・カー』
破損したレコードが示す意味
本作には、もう1曲クラシック音楽が重要なシーンで登場します。それは、家福と妻がある朝にリビングで一緒にコーヒーを飲んでいる場面です。この時、リビングのオーディオ機器ではベートーヴェン作曲『弦楽四重奏第3番ニ長調』がアナログレコードで再生されています。
このレコードに傷があり、同じ箇所が何度も何度も繰り返して再生されてしまいます。これを聞いた妻は針を上げ、音楽を止めてしまいます。そして家福に「今夜少し話がある」と告げるのです。
モーツァルトのロンドは、曲名こそロンドですが、内容は同じものを繰り返すのではなく展開していく楽曲でした。そしてベートーヴェンの弦楽四重奏では、レコードの破損によって繰り返しを表現し、そして妻がその繰り返しを止めて次の展開を示しています。
家福の日常は繰り返しを阻まれ、妻によって次を迎えるという恣意的な展開を、クラシック音楽のレコードをツールにして示すことに成功しています。
そしてこの音楽が象徴したように、その夜家福の妻は急死してしまいます。浮気を目撃していてさえ、事を荒立てずに日常を繰り返したかった家福でしたが、繰り返しをやめて次のステップに進ませようと試みた妻の死によって、次の展開へと導かれ、その変化を受け入れることを余儀なくされるのです。
レコード破損の場面で弦楽四重奏をあえて選んだことにも監督の審美眼が光ります。村上春樹の原作では、俳優である家福がベートーヴェンの弦楽四重奏について、セリフを覚える際に聴く音楽としては最適だとしていますが、朝のリビングで使用しているとは書かれていません。
ではなぜ、濱口監督はこの朝のシーンに弦楽四重奏の楽曲を使ったのでしょうか。
ヴァイオリン2本、ヴィオラ、チェロの4人で演奏される弦楽四重奏について、文豪ゲーテは「理性的な人間の交わす対話」であると評しています。これを当てはめると、物語の中の家福夫婦の間で理性的に交わされ、繰り返されてきた関係がすでに終わっていることを示唆していると考えられます。
レコードの破損による同じフレーズの繰り返しでそれを示し、さらにはその繰り返しを妻の手によって遮断させることで、次なる展開に繫げていくのが妻であることを示しています。しかもこの妻には「音」という名が付されているのです。
モーツァルトとベートーヴェンという2人の偉大な作曲家の音楽。そのどちらのクラシック楽曲もその内容と使われ方を考えると、この映画の重要な部分を深く示唆する重要な役割を担っていたのだとわかります。濱口監督は練られた脚本とカメラワーク、映像の構図で評価の高い映画監督ですが、音楽の使い方とその理解の深さにも注目してみたいものです。
渋谷 ゆう子
音楽プロデューサー
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発売元:カルチュア・パブリッシャーズ
販売元:TCエンタテインメント
(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会