源実朝暗殺にも関わっていたとされる「北条義時」

北条時政が失脚した後、北条義時は2代執権に就いた。義時は時政同様に謀略で有力御家人を失脚させ、幕府の完全掌握は目前だった。そんな義時の前に立ちはだかったのが、第3代将軍源実朝である。

和歌の名手の実朝は、和歌を通じて後鳥羽上皇とつながりを持ち、次第に両者は信頼を深めることになる。1203年、従五位下・征夷大将軍に任じられた源実朝は翌年に西八条禅尼を正室に迎えているが、彼女は後鳥羽上皇の右腕的存在の内大臣坊門信清(藤原)の娘で、朝廷と実朝とのパイプ役として機能し、実朝を支えることになる。

画期は実朝が1209年に従三位右近衛中将に任ぜられ、政所の開設により独自のブレーンを手にし、実朝自身が直接政治に参加しはじめたことである。

次第に指導力を身に付けた実朝は、目覚ましい昇進で権威も高めていた。1216年には権中納言兼左近衛中将に任ぜられているが、このとき、義時の腹心大江広元は、高すぎる官職は辞して征夷大将軍として政務を執るのが良いと諫めている。しかし、実朝は広元の諫言、つまりは義時の意向を受け入れない姿勢を見せ官職を辞することはなかった。

1218年の実朝の昇進は目覚ましい。権大納言、左近衛大将、右大臣へと駆けあがっているが、父頼朝を越える右大臣への補任は、いよいよ実朝の時代の到来を告げるものであった。

翌1209年、八幡宮拝賀の途中を襲われた実朝は落命。襲ったのは第2代将軍頼家の次男の公暁とその一味であった。公暁は討ち取られ、こうして源氏の嫡流は3代で滅びることになる。

源実朝暗殺は、頼家の第3子公暁+「北条時政」が協力者だった可能性

公暁が厳重な警備の中で襲撃を成功させていることで、協力者があったのではとの説が根強くあり、公暁と近い三浦氏、実朝と対立していた義時、幕府の敵の後鳥羽上皇などがその候補とされる。

暗殺者として特に有力とされるのはその後絶対的な権力を握った義時である。『吾妻鏡』には、義時は八幡宮の楼門あたりで体調不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲ったと記されている。なお、このとき仲章も賊に襲われ命を落としている。わざわざ『吾妻鏡』がこれを記したのは、編纂者が、義時の関与を伝えようとしたためではないだろうか。

この後、義時への権力集中を嫌った後鳥羽上皇は、義時追討の院宣を出して倒幕の戦いを始めるのだが、御家人の支持を得られなかった上皇はあっけなく敗北し、義時は京の六波羅に進駐する。

勝利した義時は後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に、土御門上皇を土佐へと流している。武士が上皇を流罪に処すというのは前代未聞で、これに皇族や公家は恐怖した。

義時は上皇に味方した者の領地・荘園を奪って地頭を配置し、経済力と軍事動員力を高め、これによりこれまで支配力の弱かった西国にも幕府の支配が及ぶようになった。

さらに、新しい天皇を独断で後堀河天皇と決め、朝廷の無力さと幕府の権威を示し、鎌倉は完全に朝廷に上位する政権となり、本格的な「武家の世」が到来する。『吾妻鏡』はこれを称え、北条氏の歴史は義時から始まったと記している。

日本史研究会