学生時代に習った日本史というと、「暗記ばかりであまり楽しくなかった」という人も多いでしょう。しかし、授業で習った偉人たちに、いまの時代であれば“大炎上もの”の壮絶な裏話やスキャンダルがあったと知ったら、よこしまな好奇心から興味が湧く人もいるのではないでしょうか。『「日本史」の最新裏常識 目からウロコの100』(宝島社)より、教科書に載らない“鎌倉時代の裏話”をみていきます。
北条時政が執権になるまでの「謀略」の数々
初代執権北条時政の人生を狂わせたのは、年の離れた美しい後妻、牧の方である。源頼朝の正室の北条政子が、頼朝の浮気相手であった亀の前が匿われていた屋敷(頼朝の祐筆伏見広綱の屋敷とされる)を打ち壊させたという事件があった。
この時、政子の命で屋敷を破壊したのが、牧の方の父、牧宗親である。この事件では、頼朝は宗親を罰して恥辱を与えているが、時政はこれに抗議し、一族とともに伊豆に引き揚げて頼朝を困惑させている。主家である頼朝と、妻である牧の方を天秤にかけたとき、時政は牧の方を選んだということになる。
幕府ナンバー2の梶原景時失脚は、時政による「密謀」だった!?
頼朝から圧倒的な信頼を得ていた梶原景時は、源頼家からも信頼され、幕府ナンバー2と呼べる扱いを受けていた。
あるとき、下野の御家人結城朝光を景時が成敗するという噂が立ち、恐怖に駆られた朝光は反対に、景時の弾劾状を幕府に提出した。景時は鎌倉を追放され、一族を連れて西国へ落ちる途中、駿河で在地の武士と衝突し、争いとなり討ち取られてしまった。
実は、朝光が成敗されるという噂は、北条時政の娘(政子の妹)が流したもので、景時失脚は時政による密謀だったと噂されている。
さらに時政は、第2代将軍頼家に近い比企能員を謀略で殺害すると、頼家から将軍職を剝奪し修善寺に幽閉。こうして幕府を完全に支配し初代執権に就任する。翌月頼家の弟の実朝を将軍に就任させ傀儡とした。なお、頼家は翌年修善寺で暗殺されている。
謀略の影にあった、“愛する後妻”牧の方
これら時政の謀略の影には、牧の方の影があるとされるが、御家人畠山重忠が謀反を企てたとして討ち取られた件では、牧の方が原因であることを確認することができる。
この事件は、牧の方の娘婿の平賀朝雅と重忠の嫡男畠山重保が酒席で言い争いになったことにはじまる。ある宴席で平賀朝雅と畠山重保とが口論となり、朝雅は悪口を言われたと牧の方に訴え、牧の方は激しく怒り、時政は謀略を駆使して畠山父子を謀反人として討伐する。御家人の鑑と評された畠山重忠謀殺は時政を御家人たちから孤立させ、時政は息子の義時とも対立する。
決定打となったのは、将軍実朝を殺して平賀朝雅を将軍に立てようという暴挙である。時政はこれすら牧の方のいいなりに実行したが、御家人たちの支持を得た北条政子らの反発を受けて計画は失敗。
時政は失脚し、牧の方は娘を頼って京に逃げ、そのまま京で生涯を終えている。鎌倉を追放された時政は出家し、10年ほどののち、隠居地である北条の地で没している。
『鎌倉北条九代記』では、天下の執権を辞して伊豆国北条郡で引き籠っていた時政は、1214年の冬、背中に腫瘍ができ、耐え難い腹痛の中、翌年の正月6日に亡くなったとある。
激しい腹痛と、腫瘍が背中にまで出ていることから、体中にガンが転移した末期ガンと思われる。若き後妻の色香に目が眩まなければ、栄光の中で鎌倉の地で死ねたのだが、初代執権時政の晩年は哀れなものであった。