今回は、相場師 林輝太郎氏が出会った、相場社会の「実践家」たちについて語ります。※本連載では、投資顧問会社「林投資研究所」代表取締役 林知之氏の著書『億トレⅢ プロ投資家のアタマの中』(マイルストーンズ)から一部を抜粋し、相場師として大きな成功を収めた林輝太郎氏が歩んだ歴史と、売買の秘訣などについて、インタビュー形式で紹介していきます。

書籍の出版をきっかけに新たな出会いを得る

前回からの続きです)

 

─その後も隆昌産業で働き続けたの?

 

営業成績が良かったので、他社から声をかけられたことがあった。近藤良介という人が穀物の会社を経営していて、戦時中は日本軍に食料の麦を一手に卸すほどの規模で事業をしていたんだ。

 

彼は、穀物取引所の発起人でもあったはずだ。その近藤さんの会社に、「独眼竜」のペンネームで有名だった立花証券の石井久さんが働いていたことがあり、近藤さんと石井さんの2人は仕事上密接な関係にあったわけだ。

 

石井さんはそのころ、まだ立花証券を買収する前で、「江戸橋証券」という会社を経営していた。そのかたわら、「江戸橋物産」という別会社をつくって小豆を中心に商品相場の仕事をしようということになり、その経営に携わる者を選んでいる時にオレの名前が挙がったらしいんだ。で、そこにかかわっていた近藤さんから、「やってみないか」という話をもらった。

 

近藤さんはオレのことを知らなかったけど、彼は「冨士田音治郎」という芸名を持つ長唄の名取りで、長唄の師匠をしていたおまえの母親と偶然にも同じ一門だった。近藤さんが、そのルートで連絡をくれ、実際に会うことになったんだ。

 

その後は、条件について話し合いを続けたあと、最後には正式なオファーを電報で送ってくれた。今の時代ならメールか?

 

でも、所属する隆昌産業の小島社長がその話を聞きつけ、オレを引き止めたんだよ。隆昌産業では快適に仕事をさせてもらっていたから、裏切るようなことはできないと感じて、近藤さんからの話は断った。

 

─でも、商品会社の「ヤマハ通商」を立ち上げた。その経緯は?

 

独立したいという気持ちがあったからだな。たまたま資金を出してくれる人に出会い、小島社長ときちんと話をして独立したんだ。

 

でも、会社を経営するというのは難しいもので、資金を出してくれた人や周囲の人たちとのつき合いを含め、相場を張るのとは異なる才覚が必要だった。思ったようにはできなかったよ。

 

つらかったのは、信じていた部下に裏切られて金の工面に走り回ったことかな。本当に、いい思い出がない時代だ・・・。

 

今振り返って、よかったと思うのは、つき合っていた人の多くが相場社会の実践家だったことだな。評論家や、ヘンな理論家ではなくね。

 

オレは”相場の職人”を目指して勉強しながら、確信が持てたことを本にまとめた。その本がきっかけで、また別の実践家と話をしたり教えを受けたりする機会が生まれた。勉強になったよ。

 

─いきなり単行本を出したの?

 

いや、そうじゃない。最初は、廣済堂出版(現・廣済堂あかつき株式会社)が出している月刊の投資雑誌の編集者に声をかけてもらい、連載を執筆したのが始まりだ。

 

その連載で文章の経験を積みながら書きためることができた結果、隆昌産業で働いていた時代に小豆相場の本を出すことができたんだ。『小豆の罫線』を昭和35年(1960年)5月に、同じ年の9月には『小豆相場の基本』を出版し、どちらの本も何度も重版された。

 

その当時は、小豆相場の本が少なくて、この2冊はよく売れたんだ。親戚の家によく遊びに来ていた大手出版社の人に部数を聞かれて正直に答えたら、「そんなに売れるものか」と信じてもらえなかったくらいだ。

 

相場の本なんて、今でもマイナーなジャンルだからな。でも、仲買店(商品会社)の蘇田経済や豊商事が顧客に配布してくれたので、それだけでもけっこうな数だったはずだ。

 

本が売れても、儲けなんてたかがしれている。でも、出会いが増えた。「タマゴボーロ」で有名な竹田製菓の竹田和平さん()は実業家だけど、たくさんの会社の大株主として有名な投資家だ。おカネに関する本も執筆しているな。そういう人たちが訪ねてきてくれることもあったんだよ。

 

竹田和平
1933年生まれの実業家、投資家。祖父が戦前から作っていた「タマゴボーロ」の生産を機械化するなど事業家として活躍すると同時に、100社を超える上場企業の大株主だった。また、事業のかたわらで人材育成の場を主宰し、財や経験の社会還元に努めた。このインタビューの約5年後、2016年7月2日に満83歳で没した。

 

結局は、職人的に相場を行う実践家とのつき合いが中心だったが、執筆活動で新たな出会いが生まれ、自分が知りたいことを勉強するチャンスが増えたことは幸運だったよ。

「真に実用的なやり方」を追い求めていた実践家たち

─思い出に残る「実践家との出会い」は?

 

例えば、山種証券をつくった山崎種二さんかな。山崎さんと話す機会ができたのも、『小豆の罫線』を書いたことがきっかけだった。

 

三好商店という現物商の社長が亡くなったので、通夜に参列したんだ。その席で偶然に山崎さんと出会い、名刺を渡してあいさつすると、「あの小豆相場の本を書いたのは、あんたか」なんて、どこかで見て名前を憶えていてくれたんだな。

 

そんな反応に対してオレが「話を聞かせてほしい」と頼むと、「わかった。明日の午後1時に事務所に来なさい。ひとりでですよ」なんて承諾してくれてね。

 

約束通り、ひとりで社長室に行くと、壁一面に手描きのケイ線が張ってあった。そこで1時間ほど、ひたすら相場の話をしたんだ。いろいろと含蓄のある言葉を聞かせてもらっよ。

 

例えば、「相場は分析するものではない。上手下手が問題なんだ。多くの人は勘違いしている」とか、「高値の期間と安値の期間を比べれば、安値の期間のほうが長い。だから”売り”に分があるんだ」といった、すごく実践的なことばかりだった。

 

残念ながら、それ以降のつき合いはなかったなあ。だって当時の山崎さんは、一外務員のオレにとっては雲の上の存在。でも、こういった貴重な教えが自分の研究結果や経験と重なり、仮説が確信に変わったり、新しい疑問や興味が生まれたりと、相場が好きなオレを大いに刺激してくれたと思う。

 

ちなみに、最初の単行本『小豆の罫線』は、原稿をそろえた時点で大いに悩んだんだ。実績がないから自費で出版しようか、でも本なんて儲かるものでもない、商売としては水物だからどうしようかと・・・。

 

そんな時に社団法人東京市況調査会から出してくれるというので、喜んでお願いしたよ。なにしろ初めての単行本だったからうれしくて、出来上がった本を枕元に置いて寝たくらいだ。

 

─ほかには?

 

さっき言った山村新治郎さん・・・あの人もオレをかわいがってくれたな。

 

あとは、『株式商品・成功相場大学』など数冊の本を出した相場師、鈴木隆さんとの出会いも印象に残っている。

 

昭和31年(1956年)に隆昌産業で働き始めたあと、たまたま丸宮商事という商品会社に立ち寄ったんだ。その時、古ぼけた背広を着た人が小豆3枚成り行き買いの注文を出して静かに帰っていくんだ。あとで聞いて、有名な鈴木隆さんだとわかったんだが、もっと驚いたのは、その年の上げ相場で200枚以上の買い玉を持っていたことだ。鈴木さんは乗せ()が得意だったが、上げ相場で枚数を増やしながらも買い玉の平均値をかなり安く抑えていたなあ。

 

乗せ(利乗せ)
見込み通りの方向に動いてから玉を増やしていくポジション操作の方法。

 

正式に会ったのは、隆昌産業の専務だった高木さんという人に紹介された時だ。それ以後も数え切れないほど会って、いろいろと教えてもらった。”相場の流れに従う”という考えで売買していた人で、個人投資家のお手本となるような成功者だよ。「多額納税者議員」として貴族院で政治に携わり、政府の要職に就いていたこともある人なのに、偉ぶることなくオレの質問にも丁寧に答えてくれたなあ。

 

鈴木さんは昭和53年(1978年)に亡くなったけど、最後に会ったのはその半年ほど前、山種物産の人と一緒に銀座の交詢社のレストランで食事をした時だ。はっきりと記憶しているよ。

 

─乗せについて、一般には誤解も多いと思うんだよね。

 

乗せは、高等テクニックのひとつだ。上がると予想して買ったあと予想通りに上がったという状況で、買い玉を増やしていく、その増やし方を最初から計画しておくんだな。

 

利点は、上げトレンドに移ったと確信を強めてから玉を増やすので、本玉を増やす過程が精神的に進めやすいということ。そのかわり、最終的な玉の平均価格は、買いならば高く、売りならば安く、つまり数量を増やすほど不利になっていくのが欠点だ。

 

乗せは、自分の予想が正しいという気持ちが強まる中で玉を増やしていく、利益の可能性が高まる、しかし平均値段は不利になっていくという複雑な状況だから、コントロールが難しいな。

 

一般の人が行う乗せは、買って上がったところで興奮して、思いつきだけで玉を増やしてしまうというやり方だ。戦略とか手法と呼べるものではなく、コントロールできない玉をつくって突進するんだから、誤解というよりも、相場との向き合い方そのものが間違っているということかな。

 

ビデオ『売りのテクニック』の中でも話したけど、思いつきで玉を増やす行為を「小利口の小細工」という。買ったら見込み違いで下がっちゃったので仕方がないから買い増し、なんていう”ヤラレナンピン”も同じだ。

 

オレがつき合ってきた実践家たちは例外なく、こういった実際のことだけを考え、真に実用的なやり方だけを追い求めていたな。

約1年間、図書館に通つめて相場の本を読みあさり・・・

─当時の業界は、今よりも”大物”と出会う機会が多かったの?

 

大物に会えるかどうかは行動しだい、今も昔も同じじゃないのか?でも、取引所の界隈、いわゆる”シマ”の中に数少ない業界人がいたから、密度は濃かったかもしれないな。今とちがって、相場師と呼ばれるような実践家が証券会社や商品会社のオーナー経営者という時代だったし、実践家たちが、取引所を中心に狭い空間を共有していたわけだ。

 

独立した相場師で山本真一という人がいたが、相場以外にやることがないので年中、オレの店(隆昌産業)にあそびに来ていた。昼メシを食う相手を探したりしていたんだな。

 

山本さんは、サヤ取りが専門。食事をおごってもらいながら、いろいろなことを教わったよ。小豆が”花形”銘柄としてよく動いている時代だったから、サヤ取りのような地味な売買は「ゴミ拾い」なんて悪口を言われたけど、山本さんは立派な相場師だったし、オレも含めて尊敬している人は大勢いた。

 

さっき話した近藤良介さんからも、相場を教わったよ。近藤さんは長唄の名取りといっても、趣味の延長で名前をもらったような”旦那芸”のレベルではなく、歌舞伎座で開催する公演に出ていたほどの腕前だ。面白い人がたくさんいたよ、当時は。

 

有名なところでは、まあ有名といっても古い人だが、『大番()』という小説のモデルになった相場師、佐藤和三郎さんと会ったこともあるなあ。親しかった日経新聞の記者が、佐藤さんが作ったゴルフ場に招待されているというので、一緒にノコノコと出かけていったんだ。

 

大番(おおばん)
作家「獅子文六」の大衆小説で、人気が出たために映画化された。フジテレビの連続ドラマになった時は、渥美清が主人公を演じた。

 

ゴルフ場に着くと佐藤さんが出てきて、「前場()だけ一緒にやりましょう」って。別に相場を教わったわけではなく、単に9ホールを一緒にプレーしただけだった。

 

前場(ぜんば)
ゴルフは通常、ホールをプレーするが、相場業界の人間は前半の9ホール(フロントナイン)を前場、後半の9ホール(バックナイン)を後場(ごば)と表現した。さすがに古い言い方だが、今でも一応は通じるのではないだろうか。

 

メディアが「最後の相場師」なんてニックネームをつけた是川銀蔵さんとは数回、証券会社の店頭などで会ったし、そば屋で食事をしながら相場の話を聞かせてもらったこともある。

 

でも、最も印象に残っているのは、やはり安(やす)さんだな。安さんの指導がなければ、今のオレはなかったと思う。

 

実は、安さんとのつき合いには20年くらいブランクがあったんだが、たしか林投資研究所を立ち上げた直後に偶然、新宿歌舞伎町の通りでバッタリと再会したんだよ。安さんは当時、彼の友人が病気で入院している間、歌舞伎町のポルノショップの店番を頼まれていてね。そんなことがあって、あらためて安さんと相場の話をする機会に恵まれたんだな。ただ、不思議なことに、もともと安さんの印象が強かったせいか、ずっと継続してつき合っていたような感覚が残っていたなあ。

 

─話が少し戻るけど、勉強の本は単純に買い集めたの?

 

長い期間この業界にいて勉強を続けているから、本はたくさん買ったな。今でも保存してある中には貴重なものもたくさんある。でも、最も夢中になって本を読んだのは、相場の業界で仕事を始める前だったかもな。

 

進駐軍で働いたり、ユダヤ人経営のエー・ポンビー商会で働いたが、隆昌産業でセールスとして働き始める直前は失業しているような状態で、時間がたっぷりとあったんだ。そのころの約1年間は、図書館に通って相場の本を読みあさったよ。

 

今の国立国会図書館(永田町)の前身が国立図書館で、東京の上野にあったんだ。そこに、雨の日も風の日も通い、合計で200冊くらいの相場本を読んだ。終戦後だったから、ちまたでは本を入手しにくい状況だったし、カネもなかったからな。大阪にある、中之島図書館にも通ったよ。

 

そういえば鈴木隆さんが亡くなった時、彼が残した相場の本を買い取ろうとしたんだけど、惜しくも逃したんだよ。鈴木さんのご家族から「蔵書を引き取らないか」と連絡をもらい、そこで亡くなったことを知って驚いたのだが、オレは即座に「買います!」と返事をした。

 

ただ、次に連絡が来た時には、「林さんよりも先に返事をくれた人がいました。残念です」と言われちゃってね。ご家族や関係者の複数が同時に動いて、業界の人に声をかけていたんだろうな。

 

現代のように便利な通信手段もなかった時代だが、人の感情、人と人のつながりは同じだったはずだ。大量の情報があることに惑わされない、適切な勉強の方法を考えさせられるエピソードの数々である。

 

ここからは、輝太郎が戦後の経験から学んだ相場の考え方を中心に話を聞いた。

億トレⅢ プロ投資家のアタマの中

億トレⅢ プロ投資家のアタマの中

林 知之

マイルストーンズ

コントロール不能の相場を相手に、投資のプロたちは「何を見て、何を学んだ」のか、「何を考え、どう行動した」のか、そして「何にこだわり、何を捨てた」のか―― 6年に及ぶ長期取材を経て、今だからこそ伝えたいマーケット…

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