今回は、法が整備されていなかった頃の証券業界周辺の様子について語ります。※本連載では、投資顧問会社「林投資研究所」代表取締役 林知之氏の著書『億トレⅢ プロ投資家のアタマの中』(マイルストーンズ)から一部を抜粋し、相場師として大きな成功を収めた林輝太郎氏が歩んだ歴史と、売買の秘訣などについて、インタビュー形式で紹介していきます。

法整備がされて時代だからこそできた「本音の議論」

前回からの続きです)

 

─周囲の実践家、つまり売買のプロたちの手法は?

 

「サヤ取り」か「うねり取り」、大部分はこの2つに集約されたな。でも、「売り」が専門の人もいた。下げを狙って売りを仕掛ける、これだけをやる人だ。山崎種二さんなんかが、この部類だ。売りで利益を上げて、手持ちの現物のコストはゼロ未満、大幅な〝マイナス〟になっていたんだから。鈴木隆さんが得意とする「乗せ」も、ひとつの分野といっていいんじゃないかな。

 

オレは、そういった実践家たちの影響を受けながらも、オーソドックスなうねり取りを主に、理論を排除した売り買いの実際を勉強してきたんだ。

 

─でも日東証券で売買を始めたころは、我流だったんでしょ?

 

初めての売買はもちろん我流で、まぐれ当たりだよ。ただ、図書館通いで勉強していたから、やみくもに売り買いしたわけでもない。

 

日東証券の社長は土屋陽三郎という有名な相場師で、相場の本も出していた。彼の本も読んでいたから、日東証券の店先でその本の内容を話すと、営業の人が「その通り」なんて答えてくれたり、話の流れで相場の実践についていろいろと教えてくれたものだ。

 

ある時、日東証券の経理部長がアドバイスをくれたんだ。その経理部長は相場のことを理解している人だったから、大勢の顧客の帳面を見ながら、一人一人の売買レベルを自然に判断していたんだろうな。

 

日東証券の人たちと理論的な話をすることもあったが、あくまでも実践を前提にした議論だな。もちろん、くだらない強弱論争をすることなどない。上手に売り買いして、相場の波を泳いでいく方法について意見を交換していたよ。

 

今みたいに細かいことを定めた法律がなかったこともあって、業界そのものが大らかで、現場ではまっすぐに相場に目を向けた本音の議論しかなかった。

「取れるものなら取ってみやがれ!」

─現在は、金融業者を規制する法律が整備されているからね。当時は、今のような法律がなかったから、看板を出している業者がメチャクチャなことをしていたのでは?

 

たしかにそうだな。今とはちがって、それぞれが勝手にやっていたような時代だ。だからこそ本音だけの世界があったんだが、中にはひどい輩だっていたよ。

 

ある日、オレのお客さんから相談を受けたことがあった。その人は、ほかの商品会社でも取引していたんだが、そこに預けてある資金を引き出そうとしても応じてくれないというんだよ。

 

そこはモラルの低い店で、いわゆる〝呑み屋〟だったわけだ。顧客の注文を場にさらす(きちんと取引所につなぐ)ことなく、競馬の呑み屋と同じように自分で抱えてしまうから、顧客にムリな売買をさせて短期間で損をさせ、その損を丸々いただこうって狙いなわけだ。

 

顧客が自然に損するのを期待して注文を呑むだけの業者もいたが、その店は損させるように誘導して「とっとといただこう」っていう根っから悪質な業者で、倫理的に許しがたい営業姿勢だったんだよ。

 

オレのお客さんは、その店で売買して利益を出したんだ。その利益金を引き出そうとしたんだが、店としては出金を食い止めなくちゃならない。注文を呑んでいたのに利益金を出されたら、丸損だからな。その利益を再投資、証拠金に充てて派手に張らせて損をさせ、最後にいただくのが呑み屋の論理だ。

 

でも、なんとか出金を食い止めるといった対応じゃなくて、とにかくカネは渡さないの一点張りだと聞いてオレが同行したら、最初から人を脅すような口調で、返すつもりなど毛頭ないことが明らかだった。こわい顔をした人が机の上にドッカとあぐらをかき、「取れるものなら取ってみやがれ!」とタンカを切るし、グッとめくったシャツの袖の下には、入れ墨があったよ。

 

何十年も経過しているから今では笑い話だが、イヤな記憶だ。しかも、その入れ墨者が、その後も業界でそれなりの立場に就いていたんだからな。業界全体がそういった悪い風潮を引きずってきた部分は、心底「いやだなあ」と感じるよ。

 

─そういったことを見てきて、自身の商品会社「ヤマハ通商」は”真面目な”会社にしたいと思ったわけ?

 

特にそんなことを考えた記憶はないね。だって、お客さんに儲けてもらいたいと考えたり、お客さんと共存共栄するといった発想は、当たり前だろ? 「求められたら預かっているおカネを返す真面目な会社」なんて、力んで言うようなことじゃあない。だから、〝ふつう〟に商品会社をやるという気持ちだけだった。

 

ただ、目指すものは明確にあったな。安さんのように相場の道を教えてくれる人は、時代を問わず少ないと思うんだ。それに彼は、徹底的に〝相場の職人〟だった。だから、個人投資家を相手に自分が安さんのようになろう、経験や勉強を通じて覚えたことを伝えよう──そんな思いはヤマハ通商のころからずっと同じだ。そして、その思いを最も具現化したのが林投資研究所だよ。

いつの時代も変わらない、相場で最も大切なこととは?

─今の株式市場は、戦後と大きくちがうと思う?

 

兜町と蛎殻町を隔てる日本橋川に、橋がかかっている。その橋のたもとで、ケイ線を張った戸板を立て掛けて相場解説をしている人がいたね。今ならばインターネットで情報が飛び交うんだろうが、当時はシマの中で直接的な情報交換をするのが当たり前だった。親しい人の事務所を訪ねたり、道ばたで立ち話をしたり、のんびりとした風景だったな。

 

でも、相場は相場だ。多くの人が利益を求めて集まっているのが、「市場」という場所だろ。例えば、江戸時代のチャートを今も資料として大切に保管しているけど、その”上げ下げ”を見ると、今の相場の上げ下げと特に変わったことなどない。説明されない限り、大昔のチャートだなんて誰にもわからないんだよ。

 

長年この業界にいて時代の移り変わりを見てきたが、最も大切なのは値動きに対して自分がどう動くのか、という部分だろうね。

 

昔のシマの風景を聞いた私は、自分が証券マンとして兜町にいた80年代のバブル期を思い出した。取引システムはコンピュータ化されていたが、東証には依然として立会場が残っていて、活況のときには場立ち(※)同士が文字通りぶつかり合っていた。そのため立会場には、背の高い人やラグビー部出身の人が多かったという。

 

場立ち(ばたち)

立会場(たちあいじょう)を歩き回りながら自社の注文を処理する、証券会社の担当者

 

営業の現場では、古株の歩合外務員が昼休みに自作のビラを配っていた。B4サイズの紙に前場の市況や「街の噂」と題した怪しげな仕手株情報を手書きし、それをコピーして兜町の通りで道行く人に手渡していたのである。

 

うさんくさいとばかりに、よけて通るビジネスマンが多かったが、「戸板にケイ線を張る」のと同様にマーケットの自然な姿といえば、納得する人も多いだろう。

 

商品会社の人たちと飲んだ際に、輝太郎から聞いた「取れるものなら取ってみやがれ」の話をしたところ、そのうちの一人が「オレの時代、そういう会社では担当者が居留守を使っていたよ。『返さない』って面と向かって言うのだから、いくらかマシだったのか?」などと言った。

 

すると別の人が、次のような発言をした。「マシ?どこがだよ。そもそも受付もないような小さなオフィスで、居留守なんて発想がなかっただけでしょ。とにかく長年にわたって、不真面目な会社があったんだよ」

 

現在は法律が整備され、業者もお行儀よくせざるを得ない。だが、カネが飛び交う社会というのは、一般から見れば特殊な世界だ。倫理的な線引きを別とすれば”きなくさい”話が飛び交うのが自然なこと、それがマーケットの真の姿だと思う。

 

「適正な価格形成」という教科書の説明をあざ笑うかのように、行きすぎた高値をみせたり、売られすぎて異常な安値をみせる、そこに向かって大きなトレンドをつくるのが相場である。

 

林投資研究所が提唱する相場技術論からは、「トレンドの影に生まれる”デマを含めた裏情報”に惑わされるな」というメッセージが生まれるのだが、マーケットの”やんちゃ”な部分を否定してしまったら、相場を正しく認識することはできない。

億トレⅢ プロ投資家のアタマの中

億トレⅢ プロ投資家のアタマの中

林 知之

マイルストーンズ

コントロール不能の相場を相手に、投資のプロたちは「何を見て、何を学んだ」のか、「何を考え、どう行動した」のか、そして「何にこだわり、何を捨てた」のか―― 6年に及ぶ長期取材を経て、今だからこそ伝えたいマーケット…

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