・和久井健太(わくい・けんた)
京都にある洛中信用金庫に就職。入社三年目を迎え、北大路支店の営業部に配属されるも、引っ込み思案がわざわいして、苦戦。最近自分がこの仕事に向いているのか悩んでいる。
玄関口でサイクリングシューズを脱いだ。広い土間にはサンダルとジョギングシューズと革靴がひとつずつ置いてある。
和久井の住まいは、この木造二階建ての洛中信用金庫の職員寮「わかば寮」だ。家賃は給料天引きで光熱費込みの二万円。立地を考えると大変に割安だが、風呂はない。トイレも台所も共同である。
プライバシーが保たれないし、エアコンはなく、冬もすきま風がキビしい上に、石油ストーブの使用は共同台所のみという窮屈さと過酷さを嫌って、入居を希望する職員はほとんどいない。去年、結婚を機にひとりここを去ってからは、いま一緒に住んでいるのは、いっこ上の先輩職員ひとりだけだ。
和久井は自転車を担いで三和土に上がり、古い階段を軋ませながら、二階へ昇った。目黒先輩の部屋の前を通ったが、あいかわらずひっそり静まりかえっていた。
そのふたつおいて隣が和久井の部屋だ。自室の前の廊下にロードバイクを置いてから、共同台所に下りた。そして、大鍋に水を汲んで湯を沸かした。
熱湯になる手前で火を止め、大鍋を洗濯場に運ぶと、流しに置いた金盥(かなだらい)に半分注いで、これに水を加えて、ぬるま湯にした。そして、湯を張った金盥にタオルを浸けてから、ジャージとレーサーパンツを脱いで真っ裸になると、絞ったタオルで身体と顔を丹念に拭いた。
裸のままで両手に大鍋を持ち、もう一度台所のコンロに戻した。湯が沸き立つと、そこにスパゲッティを放り込んだ。和久井は、全裸の男が台所に立ってパスタを茹でているこの光景は異様だなと内心苦笑しつつも、誰も見てない時と場所を選んで、だらしなく振る舞う開放感を味わっていた。
茹で上がる間に部屋に戻ると、Tシャツとトランクスを身につけてからまた台所に戻り、パスタをザルにあけて、湯切りしてから皿に盛り付け、市販のソースを絡めてたらこスパゲティを作って、遅めのランチをひとりで食べた。
皿をさっと洗ってから、Tシャツとパンツ一丁のまま、部屋に敷いてあった布団に寝転がった。窓から心地よい春風が入ってきた。
その優しい風に撫でられながら、ああ、こんなふうに無為に毎日が送れたらどんなにいいだろう、予算やら財務諸表やらキャッシュフローやら金融資産やら不動産やらを考えなくて済む世界で、毎日をだらだらと過ごせるのなら、ほかには多くを望まない、一生このボロい寮で過ごしてもかまやしないさ――、そんな気持ちになった。
「とにかく、先に始めとくさかい」
しばらくすると、和久井はウトウトしはじめた。
まどろみの中で、スマホが鳴った。
畜生、今日は休日だ、取らないぞ、と和久井は思った。どうせ、休日のこんな時間にかかってくる電話なんか、ろくなものじゃないんだ。借り換え? オタクは金利が高すぎる? しょうがないだろ、こっちはしがない信用金庫だ。金利で勝負したら銀行には勝てないんだよ。そんなに低金利が好きなら、借り換えでもなんでも好きにするがいい。
――いや、よくないな。
和久井は、はっとした。
そして次の瞬間、「いけね」と舌打ちしながら飛び起きて、スマホをつかみ、戸山田充(とやまだみつる)という発信人の名前をディスプレイに確認すると、寮の廊下を走って、共同便所に飛び込み、遠慮なく放尿しながらスマホを耳に当てた。
〈もしもし〉
声に混じって街のノイズが聞こえる。どうやら相手はもう会場の近くにいるにちがいない。
「あ、俺、和久井」
〈いちいち名乗らんでいいし。俺がかけてるから、発信のときに名前出てる〉
そりゃそうだ。
〈で、どないしたん。遅いやんか〉
「すまん、ちょっと遅れる」
〈へえ、休日出勤なん?〉
「いや」
〈ちゃうの、俺は午前中だけ出てたんやで〉
そうか、みんな学生気分を抜いて働いてるんだな。
〈で、いまどこなん?〉
「実はまだ寮だ」
〈寮? ってことは、なんなんそのジョボジョボいうてるの、まさかお前あの汚いトイレでションベンしながら電話してんか〉
「まさか、そんなことは……」
と言いかけて、「ないよ」と言い切れないところが和久井の押しの弱いところである。
〈とにかく、先に始めとくさかい、なるべく早よ来いや〉
わかったと言って、水洗のレバーを跳ね上げた。ジャーッと梅雨時の賀茂川のように勢いよく水が流れ、その音を聞きつけたらしき戸山田の「やっぱりトイレやな!」という声が聞こえた。ゴメンと言いながら和久井は切って、部屋に戻った。
多少はましな格好をしていこうかと思ったが、急いでいたので、そこらへんにあるものを着て、寮の軒下に停めてあったクロスバイクに跨がって、ペダルを踏み込んだ。高野川を西に渡って賀茂川に出ると、川伝いに桜が咲きはじめている。
京の桜は、しだれ桜だ。
晴れがましく咲き乱れるようなソメイヨシノとは違って、しおらしくお辞儀をしているような、しっとりとした趣のこの花は、よそではなかなかお目にかかれない。
川沿いに桜の下をゆっくり走りたかったが、そうもしていられなかったので、右岸に渡って河原の道に下りた。
橋をいくつかくぐると、そこかしこに緑のビニールシートが見える。ホームレスの住居なのだが、京都は観光が市の財政を支えているので、当然景観にはうるさい。このような不法住居に対しての取り締まりも厳しい。大丈夫だろうかと和久井は不安になった。