「おたくのカート、あそこにたくさん置いてあったよ」

数日後、宮下さんが売り場を巡回していると、常連のAさんから声をかけられます。「カートが100円玉がないと使えなくなっちゃったんだね」という話題をきっかけに、Aさんは何かを思いついたように言いました。

「そういえば、おたくのスーパーのカート、あそこの団地にたくさん転がってたよ」

宮下さんのスーパーの近くには、いくつもの公営住宅が立ち並んでいます。Aさんが町内会の集金で公営団地に足を踏み入れた際、部屋の外にカートが置かれていることに気づいたそうです。しかも、一つの部屋だけでなく、複数の部屋の前にカートが置かれていました。

カートが置かれている部屋の住人は、いずれも一人暮らしの高齢者ばかりです。

カートを持ち帰る高齢者の切実な事情

「あそこの団地には年金が少なくて身寄りがないお年寄りがたくさんいるからね。自分一人で重いものを運べないし、バスやタクシーを使うお金もないしで持って帰っちゃったんだろうね」

Aさんの話を聞いて、宮下さんは自分の中にあった「悪意のあるカート泥棒」のイメージが大きく崩れていくのを感じました。

国土交通省『公営住宅の優先入居について』によると、公営住宅に優先的に入居できる対象世帯として以下のケースが挙げられています。

・高齢者世帯
・障害者世帯
・著しく所得の低い世帯
・子育て世帯
・若者夫婦世帯
・DV被害者世帯
・犯罪被害により従前の住居に居住することが困難となった世帯
・中国残留邦人等世帯

著しく所得の低い高齢者世帯は、公営住宅の優先入居の対象となっているのです。このような背景を知ると、スーパーのショッピングカートが公営団地からいくつも発見された理由が想像できます。

Aさんの話を聞いて、店舗の運用ルールを見直すことに

宮下さんは、店内のショッピングカートをすべてコイン返却式にしたら、使い方がわからない高齢者が困るのではないかと考えるようになりました。そこで、10台ほどある小型のカートのみ、コインを投入せずに使えるようにしました。

従業員には、重い荷物に苦労している高齢者を見かけた際、店舗で導入している当日配送サービス(一定額以上の購入で自宅まで配達する仕組み)や配送チケットの利用を優しく案内するよう周知しました。また、レジでの袋詰めをサポートしたり、バス停やタクシー乗り場までのわずかな距離であれば荷物運びを手伝えるよう、運用ルールを整えました。

今回の問題の裏には、単なるマナー違反にとどまらない「一人暮らしの高齢者の買い物困窮」という切実な現実が存在します。袋詰めのサポートや荷物運びのサポートは、一店舗の枠を越えて考えるべき問題といえます。行政や地域コミュニティ全体で高齢者の生活の足を支える仕組みづくりが、今まさに求められています。