社会の維持や人々の生活に欠かせない、必要不可欠な仕事を指す「エッセンシャルワーク」だが、大衆が必要とするサービスほど人件費が削減される現実は果たして「正しい」のか。本記事では、長年非正規雇用で働きながら社会問題について発信してきた文筆家・栗田隆子氏の著書『「働けない」をとことん考えてみた。』(平凡社)を一部抜粋し、エッセンシャルワークと人件費の矛盾に迫る。
激務、低賃金、非正規労働…みんなが必要としているのに、なぜ軽んじられる?「エッセンシャルワーカー」と「人件費」の矛盾
学歴や資格が評価されコミュニケーションスキルが軽視される日本
とはいえ、私にとってこの学生からの質問は考えさせられるものだった。というのも人件費削減を「万人が必要としているサービス」という理由で正当化できるという考え方ほど、資本主義の観点や価値観を端的に表したものはないと思えたからだ。学生は、資本主義の本質を私よりもよくわかっているなあとしばし感慨に耽った。
人が必要なサービスの価格を安くするために、それこそ文句を言わない大地や水などの自然をどんどん利用しまくっていいという価値観や、そのサービスにかかわる人件費を削ってよいという発想や価値観はどこから生まれてきたのか。そしてどうしてここまで社会の奥底に浸透しているのかと、賃金をめぐる問いは私の中から芋づる式に引き出されていく。
さらに恐ろしいのは、人件費を削り賃金が安くなることで、「安い賃金の仕事だから、誰にでもできる仕事だ」と原因と結果を逆さまに多くの人が認識している可能性さえあるということだ。
ジェンダーの問題に絡めて言えば、日本社会が女性に求めてきた(それこそ東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会会長だった森喜朗が発言したような)「わきまえた」感覚を持った女性が、自分の行ってきたことを「たいしたことじゃない」と思う/思わされてきた可能性もある。
病弱で偏食が激しく、じっと座っていることが苦手だったという自分の子ども時代の話を母親から聞いたときに、「正直、子育てって誰でもできるとは思えない。自分みたいな子どもを私が育てられるとは思えないし」と伝えたところ、「でも、お母さんになっている人はいっぱいいるじゃない。難しくないわよ」と言われて、複雑な気持ちになったことがある。私は今日に至るまで子どもはいないのだが、自分に子育ては難しいと思ったこともその理由の一つではある。
日本社会でいわゆる「誰でもできる仕事」と「専門的な仕事」の境界を決めるのは学歴や資格だ。逆にいえば体力や気力、人とのやりとりの力……今流行りの言葉で言うところのコミュニケーションスキルは、「誰もが当たり前に持っているもの」とみなされ軽視されてきた。
コミュニケーションスキルと言ってしまうと、営業などでものをうまく売るためとか、コンペでのプレゼンテーションをうまくやるといった能力を想定しがちだ。だがここで私が言いたいのは営業やプレゼンの能力の話ではなく、人をいじめたり見下したりしない、目下のものに威張らない、もちろんハラスメントなどしない人間関係を築く力のことなのだが、これらは全く評価の対象とされてこなかった。
評価されないどころか、「競争主義」という価値観のもと、「いじめやハラスメントを受けるような弱いものは淘汰されるべき」と考えられてきたのではないか。そうでなければ、ここまで職場の中、日本の社会の中でハラスメントが横行している理由が、私にはわからない。
栗田 隆子
文筆家