矢野豊さん(62歳・仮名)は都内のメーカーに勤務するサラリーマン。ワーカーホリックを自他ともに認めるほどの仕事好きで、60歳定年後も再雇用でバリバリ働いていました。しかし転倒して1週間も入院するなど、最近では体力の衰えが顕著で、会社からも「無理をするな」と言われてしまいます。これからの年金生活について真剣に考え始めた矢野さん。しかしそのあまりの現実に、70歳まで年金受給を繰り下げる選択とも悩んでいます。本記事では、角村FP社労士事務所の特定社会保険労務士・CFPの角村俊一氏が、矢野さんの事例を解説します。
再雇用後も年収500万円の62歳元モーレツ会社員、70歳から月25万円もらう気マンマンだったが…年金大幅ダウンも〈年金繰下げ〉を断念した妻からのひと言【社労士の助言】
繰下げ受給にデメリットがあるなんて!
豊さんは思い悩んだ末、会社に紹介してもらった社労士に相談することにしました。社労士は豊さんの状況を聞き、高齢者の労災や、繰下げ受給のメリットとデメリットを詳しく説明しました。
仕事中の事故で死亡や4日以上休むケガをした60歳以上のシニアは、昨年3万9702人と過去最多。労災による死傷者に占める60歳以上の割合も増えていて、昨年は29.3%とこちらも過去最高とのこと。
60歳以上の労働者の労災を種類別にみると「転倒」が最も多く40%。一般的に年齢を重ねると身体機能が低下して転倒しやすくなるとの説明を受け、自らの経験からも納得しました。
次に、社労士は繰下げ受給のメリットとデメリットを説明しました。年金を繰下げれば増額されますが、70歳まで無理して働き、体を壊して寿命が早まれば65歳から受給すれば良かったとなりかねません。
また、年金収入が多くなれば所得税や住民税、介護保険料なども増えることから、手取り金額は期待ほど増えない可能性があります。
豊さんは繰下げ受給にデメリットがあることを知り、驚きを隠せません。
【メリット】
- 1か月あたり0.7%増額された年金を受け取れる
- 増額された年金が一生続く
【デメリット】
- 長生きできなければ、65歳から受給した場合の年金総額のほうが多くなる
- 繰下げ受給により年金額が増えると、税金や社会保険料も増えてしまう
- 一度繰下げ請求をすると取り消すことはできず、さらに増額を図ることはできない
- 繰下げ待機期間中は加給年金も受給できないし、繰下げても加給年金は増額されない
社労士からの問いかけ~「無理して働き続けることが本当に幸せですか?」
そして社労士は豊さんの家計についてヒアリングしました。
年金収入は、豊さんの年金が月18万円、豊さんの妻の年金が月5万円で合わせて月23万円。現在の生活費が月28万円ほどなので、65歳以降に働かなければ約5万円のマイナスです。
もし繰下げ受給すると、豊さんの70歳からの年金が月25万円程度となり、妻の年金とあわせれば生活に余裕ができます。
ところで、豊さんの資産を聞いてみると貯金が約3,000万円あるとのこと。家族想いの豊さんはできるだけ多く妻と子供たちに遺したいと考えているようです。
そこで社労士は、「豊さんは今までワーカーホリックを自認するほど家族のために必死に働いてきました。どうしたって年齢とともに体力は衰えますし、無理して働けば労災の危険性も高まります。すでにお子さんたちは独立し、それぞれの人生を歩んでいます。もうご自身の健康や奥様との時間を第一に考えてもよろしいのではないでしょうか。無理して働き続けることが本当に幸せですか?」と問いかけました。
令和元年、金融審議会の市場ワーキング・グループ報告書において、「高齢夫婦無職世帯の平均的な姿で見ると、毎月の赤字額は約5万円となって」おり、「収入と支出の差である不足額約5万円が毎月発生する場合には、20年で約1,300万円、30年で約2,000万円の取崩しが必要になる」とされたのが老後2000万円問題です。
3,000万円もの貯金があれば、約5万円のマイナス分を取り崩しながらでも65歳からの年金額と合わせて十分に生活できます。急な出費があっても対応できるでしょう。
妻からの「私はあなたとゆっくり過ごしたい」、そして社労士からの「無理して働き続けることが本当に幸せですか?」いう言葉が、豊さんの心に響きます。夫の健康を気にかけながら夕飯の準備をしている妻をぼんやり見ていると、自分の健康や妻との時間を優先することが、長い目で見たときに本当の豊かさにつながるのではないかと、ふと気づきました。
最終的に、豊さんは家族との話し合いを経て65歳から年金を受け取ることに決めました。妻と過ごす時間を大切にし、老後の人生を楽しむことを選んだのです。
この決断によって豊さんは安心して老後を迎える準備ができると同時に、心の余裕を持つことができました。
角村 俊一
角村FP社労士事務所代表・CFP