かつては自宅で茶道教室を営み、しっかりとした完璧な女性だった義母。ある日、上機嫌で「不良」と書かれた紙を貼ったビール瓶を著者の元に持ち込んだ日から、義父母の介護生活が始まっていたのかもしれない……。翻訳家・エッセイストとして知られる村井理子さんの介護奮闘記『義父母の介護』(新潮社)より、義父母の介護に奔走する奮闘記をお届けします。
青天の霹靂?ある日、「不良」と書かれた紙を貼ったビール瓶を持ち込んだ76歳の義母…翻訳家・エッセイストとして活躍する著者が直面した介護生活の前兆とは?
義父母と私
私は琵琶湖畔に住む、翻訳家でエッセイストだ。夫、高校生の双子の息子と一緒に、田舎町で、平凡だけど慌ただしい日常を送っている。
翻訳家という仕事は繁忙期がまちまちで、急に忙しくなったと思ったら、全く仕事の依頼が来なくなったりもする。安定しているとはとても言えないので、常に危機感を抱きつつ営業活動に励んでいる。
エッセイを書く仕事に関しては、ありがたいことにご依頼を頂く機会が増えている。忙しいと言えば、忙しい。それでも、毎日通勤しているわけでもなし、家で文章を書き、その合間に様々な家事をこなす私の日常は、周囲から見れば気楽と映るのかもしれない(実はそうでもない。それは本書を読み進めて頂ければわかる)。
こんな、特筆すべきことがあまりない平凡な生活を送っているつもりの私だけれど、そんな平凡な生活のなかに、ここ数年、「義理の両親の介護」が加わった。加わったというか、あちらから勝手に飛び込んできた。逃げようにも逃げられず、嫌だと言ってもどうしようもなく、なんとなくスタートして、そろそろ五年目に突入だ。
夫の両親に初めて会ったのは、結婚の二年ほど前のことだった。当時、義父は大きめのホテルで総料理長をしていた。義母は自宅で茶道教室を営み、十人以上の生徒を抱えていた。初めて会った時に確認されたのは、茶道教室を継ぐ気があるかどうかで、それが「結婚の条件」という点だ。特に義母には、念を押すように何度も言われた。継ぐ気はあるのか、なければ直ちに去れというわけだ。
それまでの人生でまったく縁のなかった茶道。そのうえ教室を継ぐなんて、考えただけで無理。私が長年身を置いていた、なんのしがらみもない自由な一人暮らしの世界からは遠すぎた。それに、義理の両親に自分の将来を決められるぐらいなら、死んだほうがマシだとまで考えていた。
それから紆余曲折あり、茶道教室を継ぐかどうかはのらりくらりと回答を避け続けた末、結局、二十八歳で結婚した。茶道の教室に関しては、ただひたすら、誤魔化して、逃げ続けた。義理の両親は、茶道については三年ほどで諦めてくれたが、次は出産を強く迫るという手段に出た。結局、義理の両親の意向とは関係なく結婚後七年で出産したが、その七年の間に義理の両親と私の関係は完全に冷え切ったものとなった。会ってもほとんど会話せず、電話がかかってきても居留守を使うことが多かった。
子どもたちが小学校低学年になった頃、私と義理の両親の関係が微妙に変化しはじめる。私は徐々に譲歩することを学んだし、義理の両親は私に対する押しつけを完全に諦めた。そして双方が年を取ることでパワーバランスが変わりはじめた。
強烈だった義母は温和になり、私は精神面で強くなった。義母に何を言われても、納得出来なければ一切耳を傾けなかった。義父が何か高圧的なことを言えば、はっきりと「お義父さんはおかしい」と指摘した。義父も義母も、いつの間にか落ち着いた祖父母となっていった。
私も、子どもが生まれてからはずいぶん性格がまるくなったと多くの人に言われた。私と義理の両親との関係は、このように紆余曲折を経て穏やかなものになっていくだろうと、私はそう考えていた。まさか、夢にも、義母が認知症になってしまうとは考えていなかったのだ。
こう考えるのは私だけではないはずだ。義母を知る人であれば、誰もが「まさかあの人が」と言うだろう。それほど、義母はしっかりとした人で、何から何までできる完璧な女性だった。