日本が世界に誇るスーパーコンピューター「富岳(ふがく)」。2021年3月から本格的な運用を始め、1秒間に50京(京は1兆の1万倍)回以上の計算が可能です。しかし、2023年11月に発表されたスーパーコンピューターの計算速度を競う最新の世界ランキング「TOP500」では、米オークリッジ国立研究所の「フロンティア」が3年連続でトップとなり、理化学研究所の「富岳」は、米国の「オーロラ」と「イーグル」にも抜かれ、前回の2位から4位となりました。このようにスーパーコンピューターの世界では、現在進行形で熾烈な開発競争が行われています。そんなスーパーコンピューターは、創薬でも活用されるようになりました。創薬の現状と今後、考えうる未来についてみていきましょう。
「スパコン」と「AI」で進化が加速!「創薬」の現状と未来

※本稿は、テック系メディアサイト『iX+(イクタス)』からの転載記事です。

新型コロナウイルス感染症対策でも活躍した「富岳」

 

「富岳」が広く世の中に知られるようになったのは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックでした。ウイルスを含む飛沫の拡散シミュレーションで、室内などでせきやくしゃみをしたときに飛沫が広がる様子が描かれた映像は、テレビのニュースなどでも盛んに報道され、実際に目にしたことがある人も多いでしょう。ほかにも、治療薬の候補となる物質の探索や細胞にウイルスが感染するメカニズムの解析、コロナ禍の経済的な影響の予測など、さまざまな場面で重要な役割を果たしました。

 

また、東京工業大学などの研究チームは「富岳」を使用して、米国メジャーリーグで活躍中の二刀流スーパースター大谷翔平選手が投じる「スイーパー」と呼ばれる大きく曲がる変化球の仕組みを解析しました。ほかにも気象庁は、集中豪雨をもたらす線状降水帯の予測を目的としたシミュレーションに「富岳」を活用。従来のスーパーコンピューターでの計算では精度があまり良くないこともあり、「富岳」を用いることで精度の向上を図り、昨年から線状降水帯の発生を予測する情報の提供を始めています。

創薬の分野でも期待されるAIを搭載したスーパーコンピューター

 

最近、進められているのが「富岳」へのAIの搭載です。米オープンAIの「ChatGPT」をはじめとする生成A Iが世界中で注目されるなかで、理化学研究所や東北大学、サイバーエージェントなどは共同で、日本語による生成AIの基盤となる大規模言語モデルの開発に着手しています。

 

また、富士通と理化学研究所は、「富岳」を創薬に活用する技術について共同で研究に取り組んでいましたが、2023年1月、独自開発の生成AIと「富岳」で処理した大量の電子顕微鏡画像からタンパク質の構造変化を広範囲に予測できるAI創薬技術を開発したと発表しました。AI創薬とは、AI技術で新薬の開発や研究プロセスを推進するアプローチ。AIの長所を生かすことで大量のデータ処理が従来よりも短時間で可能になり、膨大な量の研究情報やデータを効率的に解析できることから、有望な新薬候補の発見や創薬プロセスのスピードアップが見込めるのです。

 

このように創薬の分野でも「富岳」の活用が進んでいる一方で、AIで利用するにはその性能が十分ではないとの意見もあります。計算速度ランキング「TOP500」において「富岳」より上位になった米国の「サミット」と「フロンティア」は、それぞれ画像処理装置として高い計算処理能力を備えていて、AIの開発に向いているとされるGPU(画像処理半導体)を使い、計算性能を高めています。富岳は、CPU(中央演算処理装置)がベースでGPUが搭載されておらず、さまざまな技術によって計算を高速にしているものの、その性能は劣るといいます。

スーパーコンピューターの共同利用で国内における創薬の加速をめざす

そのような背景のなか、2024年2月、三井物産の子会社で創薬の基礎研究のための会社であるXeureka(ゼウレカ)が、AIやシミュレーションを活用したAI創薬を支援するサービス「Tokyo-1」を本格的に開始したと発表しました。「Tokyo-1」では、日本の製薬会社やスタートアップ企業、バイオベンチャーなどに、米エヌビディア製GPUを搭載したスーパーコンピューターを使用できる環境を提供。同時に、AIを活用したソリューションの紹介や利用企業間での情報コミュニティーなども用意することで、創薬にかかる研究期間の大幅な短縮化や成功率の改善をめざしています。

 

創薬では、大きく「疾病の原因であるタンパク質などの特定する」「効力がある成分を組み合わせて薬にする」「薬の有効性や安全性などを確認する」の3段階があり、それぞれには非常に長い期間が必要となります。しかし、特に「効力がある成分を組み合わせて薬にする」工程の期間は、従来は2〜3年かかっていたのが、AIを活用することによって2〜3ヵ月に短縮されたという海外の報告もあります。

ドラッグラグやドラッグロスを解消へ

 

新型コロナウイルス感染症のワクチン開発では海外のメガファーマが先行し、国内で実際にワクチン接種ができるようになるまでに欧米よりも数ヵ月遅れになったように、日本では長年にわたって新薬承認の遅延(ドラッグラグ)が問題視されています。また最近では、海外では使える薬が日本国内では使えないという「ドラッグロス」の問題も注目されるようになりました。その背景には、海外製薬企業からみたときに日本の医薬品市場の魅力が低下しているという背景がありますが、いずれにしても国内における医薬品の開発力を早急に高める必要があるのは事実です。

 

新薬には、研究や開発にかかる期間が15年以上と長期にわたることに加え、成功率は2015年~2019年で約2万3,000分の1と製品化へと至る確率も極めて低いものです。製薬企業はこの問題を解決する方法の一つとして、AIの活用を考えています。従来の化学的、生物学的な手法にAIやシミュレーションなどの技術を組み合わせれば、開発期間の短縮と成功率の向上が期待できるほか、従来では発見できなかった物質から医薬品を開発することができる可能性もあるなど、医薬品の開発パイプラインを強化し、加速するための重要なツールと捉えています。

 

しかし、望むとおりにAI創薬を進めていくのに必要な計算処理能力の確保や、最先端の計算技術をキャッチアップしていくことが年々難しくなっています。また創薬とデータサイエンスの両方の知識を備えた人材や、最新の計算環境を構築したうえで維持・運用していくための人材が不足しているなど、さまざまな課題も出てきており、これらの難題がAI創薬の取り組みを加速させる障害となっています。

 

これらの問題は、日本の製薬企業が個別に取り組んでいては解決できない可能性があるほか、膨大な投資が可能な海外メガファーマに対抗していくことも難しいでしょう。そこで、「Tokyo-1」は日本の製薬企業におけるAI創薬の基盤となり研究技術の向上を後押しすることで、日本のヘルスケア業界全体の底上げを図ろうとしています。「Tokyo-1」により、これまで創薬にかかっていた時間やコストの削減が現実となり、国内における創薬の躍進の一手になると期待されているのです。

 

また、理化学研究所はAI向けスーパーコンピューター「語岳」の整備を始めています。「語岳」はGPUをベースにしており、AI向けの計算性能は「富岳」の4.5倍。現在トップのオーロラ」が、GPUとCPUを組み合わせて性能を引き上げたように、「語岳」と「富岳」も組み合わせることで、世界一のスーパーコンピューターと同等の性能をめざしています。国産のスーパーコンピューターが世界トップの座を取り戻し、国内におけるAI創薬の重要なツールになることも夢ではありません。

 

[著者プロフィール]

関根 昭彦

医療ライター 大手医薬品メーカーでの医療機器エンジニアや医薬品 MR などを経て、フリーランスに。得意分野は医療関係全般。