今や日本の国民食ともいえる「カレー」は、レシピも材料も、海外からやってきました。玉ねぎ、にんじん、ジャガイモ、トマトは西洋野菜として明治以降に普及し、カレーの定番材料となっていったのです。作家・生活史研究家である阿古真理氏の著書『おいしい食の流行史』(青幻舎)より、カレーが「日本食」として定着した経緯を見ていきましょう。
明治期、某有名ホテルの名物メニューは〈仔牛肉のカレー〉だったが…当時の「カレー」のレシピに書かれていた〈意外すぎる食材〉とは【歴史】
「タマネギ」が当初、日本人に受け入れられなかったワケとは
定着に時間がかかったのが、タマネギです。1871年には札幌で、少し遅れて大阪南部の泉州地域で栽培が始まっていますが、『カレーライスの誕生』(小菅桂子、講談社、2002年)によると、当初は「ラッキョウのお化け」などと呼ばれて、受け入れてもらえなかったそうです。一般家庭に広まるのは大正時代頃でした。
というわけで、カレーの形が定まったのは大正時代ということがわかります。
西洋野菜は、幕末から明治にかけて、先進的な農家が採り入れていきます。北海道のように西洋人の指導のもと、新しい野菜を栽培し始める場合もあります。農家の蟹江一太郎が、軍隊時代の仲間から「これからは西洋野菜だ」とすすめられて栽培を始めたのが、カゴメ創業のきっかけでした。1899年からトマトやキャベツ、レタス、パセリ、白菜、タマネギなどの栽培を始めますが、トマトだけは売れませんでした。
『「食」を創造した男たち』(島野盛郎、ダイヤモンド社、1995年)によると、それは「酸っぱいような、甘いような、青臭い、なんともいえない妙な味」と思われたからです。その4年後、得意先の西洋料理店の主人から、今のトマトピューレに当たるトマトソースがよく売れると聞き、つくり始めたところよく売れ、工場を建てて本格的に製造を始めたのです。
やがてトマトケチャップのほうがアメリカではよく売れる、と知りトマトケチャップも製造し始めます。ちなみにトマトケチャップを最初に売り出したのは横浜の清水屋で、1896年から売り始めています。
貿易港と外国人居留地がある横浜は、需要が多いことから西洋野菜の栽培が幕末から始まっています。初代の駐日イギリス公使のオールコックは、植物の愛好家でもあり、庭で野菜を栽培させていたようです。日本人では、鶴見の畑仲次郎という農家が、1863(文久3)年にキャベツの栽培を始めています。
大和屋に続いて、昭和期に家庭で常備されるようになったエスビー食品のカレー粉が誕生するのは、1923(大正12)年。カレーが家庭料理として定着し始めます。また、1924年に東京・神田で誕生したチェーン店「須田町食堂」、現在の「聚楽」でも、1929(昭和4)年に大阪梅田駅前に誕生した阪急百貨店の食堂でも、カレーは人気メニューでした。こうして、昭和初期にはカレーがブームになるのです。
ウスターソースといい、カレー粉といい、どうも大阪はスパイス好きの風土があるようです。カレールウを大衆化させたのは大阪のハウス食品。最初のレトルトカレーも大阪の大塚食品。そして近年、大流行しているスパイスカレーも大阪が発祥です。
室町時代から続く薬種問屋街があったからでしょうか。あるいは商人の町として発展し、食の都でもあったことから、新しいモノ好きでおもしろがりの風土があるのかもしれません。
日本のカレーは、日本食として世界に知られるようになりました。もしかすると、ご飯にかけて食べられる丼形式の食べ方が、人気の要因なのかもしれません。
阿古 真理
作家・生活史研究家