江戸時代後期の人々の、貴重なタンパク源となったのは…

外食店が江戸・京都・大坂で誕生しふえていったのは、江戸時代後期でした。外食店で流行った鍋の最初は、鳥を食べさせる店のものです。鳥といっても鶏ではなく、がん鍋屋、しゃも鍋屋などです。特に繁盛したのががん鍋屋でした。

表立って肉食が禁じられたとしても、人はタンパク質を摂らなければ生きていけません。大豆は親しまれていましたが、それだけでは足りなかったのでしょう。人々は野鳥を好んで食べていました。しかし、『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』によると、徳川吉宗が1718(享保3)年に鳥肉食を限定するお触れを出していて、ニワトリの肉を食べる習慣が広まっていきます。野鳥を乱獲し過ぎたのです。

『やきとりと日本人』(土田美登世、光文社新書、2014年)によると、ニワトリの鶏鍋が流行ったのは1804(文化元)年以降で、京都や大坂では「かしわ」と呼んでネギ鍋として食べ、江戸では「しゃも」と呼んで同じような食べ方をしていたそうです。江戸時代には卵料理が人気になったので、採卵用の鶏を廃鶏にする際に食べるようになりました。何年も生きたので固くなった肉を柔らかくするため鍋料理にしたのでしょう。

室町時代まで、日本では卵を食べる習慣がありませんでした。しかし、南蛮人たちが食べているのを見て、やがて食べるようになったようで、宣教師のルイス・フロイスがそのさまを記録しています。

東京の人形町にある親子丼の店、「玉ひでは創業が1760(宝暦10)年、当初はシャモ料理の店だったそうです。両国の「かど家」(2018年閉店)は1862(文久2)年、京都・木屋町の「鳥彌三」は、1788(天明8)年創業です。
※現在、建て替えのため建物自体は休館中
 

阿古 真理
作家・生活史研究家