花見はもともと「梅見」だった

一方で、花見はもともとは桜ではなく、梅見をしていたそうです。梅は奈良時代に遣隋使とともに中国から伝わった薬草で貴重な花木。貴族は舶来品であり数少ない梅を通じて日ごろ健康を維持する傍ら、梅の花の下で歌を詠むという梅見を楽しんでいました。それが平安時代に入ると、花見は梅から桜に変わっていきました。

花見が梅から桜に変わった理由は諸説あります。

1つは、中国への遣唐使が廃止され、日本独自の文化を築く機運が高まったなかで、外来種の梅から国内に生息している桜に興味が変わったから。また、御所が火災になり、愛でていた多くの梅が消失し梅見が難しくなったから。ほかにも、嵯峨天皇がたいそう桜好きだったから……などが理由といわれています。

実際812年には、嵯峨天皇主催の桜の花見会が催されたことが、最古の正式な花見会の記録とされています(日本後記)。これを機会に貴族のあいだで、桜の花見が広がっていきます。やがて武士が権力を握る時代になり、武士階級のあいだでも花見が開催されるようになっていきます。特に豊臣秀吉は花見をどんどん開放的にしていきました。

豊臣秀吉が開いた花見

秀吉が開いた吉野の花見(1594年)は、徳川家康、前田利家、伊達政宗などそうそうたる武将や、茶人、連歌師など、5000人を引き連れて行われました。そして歌の会、茶の会、お能の会など盛大な花見の宴が開かれたようです。さらに、1598年には、京都「醍醐の花見」が開かれました。この花見のために醍醐山に植樹された桜は700本、招待された1,300人の女性には1人に3枚ずつの着物が与えられ、2回の衣装がえが命じられました。また、全国から献上された銘酒や銘菓も振舞われました。

花見といえば、感謝の気持ちを捧げる儀式あるいは歌や芸のお披露目会であったのが、「醍醐の花見」を契機に、花見をしながら宴を楽しむというスタイルに変わっていったといわれています。

江戸時代に庶民へも浸透

といってもこのころは、特権階級だけに許された宴。一般庶民が桜の下で宴を開きだしたのは江戸時代になってからです。三代将軍家光が上野に桜を植樹、八代将軍吉宗が浅草や飛鳥山に植樹、その後も各地に桜の名所が築かれました。桜の交配も進み、現在もっとも人気のあるソメイヨシノを始め、江戸末期には250~300種類も開発されました。そして、庶民のあいだでも花見は春の行楽行事となり、お弁当を食べ、お酒を飲む習慣が広がりました。

明治時代に数は一時激減も、徐々に全国へ広がる

時代が明治に移ると、日清、日露戦争の影響で武家屋敷や貴族が所有していた庭園は次々と取り壊され、桜は燃料として燃やされ桜の品種は激減します。

そんな桜には厳しい時代に、たとえば駒込の植木職人高木孫右衛門は80種類以上の桜の種を保存し、のちにその種が荒川に植樹され1910年ごろには桜の名所となります。このような植木職人の努力で桜は全国に広がっていき、桜の本来の生息エリアでない北海道にも1916年から本格的に植樹がなされました。そして現在では北海道から沖縄まで全国で花見が行われています。