その武勇伝や伝えられる人柄から、今も人気を集める戦国の武将たち。しかし、最近明らかになった人間関係や行いからは、いち武将としての勇猛さとはまた違う、一人の人間としての別の側面が見えてきます。天下を取るためならば親も子もない……そんな戦国時代に活躍した武将の意外な側面を『「日本史」の最新裏常識 目からウロコの100』(宝島社)から見ていきましょう。
上杉謙信、繰り返される関東出兵は奴隷狩り
低い身分の足軽は、戦場で戦ったところで所領をもらえるわけでもなく、戦に勝っても褒美をもらえるのは侍身分の者だけである。では、足軽たちにとってメリットが何もないのかというと、実は彼らには彼らなりの楽しみが許されていた。いわゆる乱暴狼藉、乱取りである。敵地の村落の財物を奪い、そして人々を狩り出して奴隷として売ることで、彼らは個人的利益を得ていたのである。
奴隷として売られる農民たち
武田信玄が信濃を攻めた時、城兵は皆殺しにし、そうでないものはすべて、金山での坑夫や娼婦、奴婢として売るなどしたという記録がある。
信濃の志賀城(長野県佐久市)を武田軍が攻めたときの話である。討ち取った首3千余を城の周囲に並べ、落城した後は、城内の女子供や農民は甲斐へと連行され、奴隷として売られている。
信玄は最終的には勝利して得た土地を領土とするつもりでいるため、降伏した者には穏やかな対応をすることが多かった。志賀城での残虐行為は、あくまでも見せしめのためのものである。甲斐に連行してから奴隷として売ったのも、彼らが各地に行って武田の強さと怖さを言いふらすことを想定してのこと。
しかし、義将と呼ばれた上杉謙信にはそれがない。連年、関東へ出兵していた謙信は、戦に勝ちはするが領地化はせず、すぐに越後へと戻っている。
ある研究者は、謙信にとっての関東討ち入りは越後の農民の農閑期の経済対策としての出兵であったとしている。だからこそ、戦に勝ってもその地を放棄してしまうし、農民や町人は、捕まえて奴隷として売りさばいたのだと。
下野の小田城を謙信が攻め落とした後、謙信の命で市が立てられたが、そこでは20文から32文で人が売買されていた。
安いのは、身内が買い戻せる金額がこのあたりだからである。関東での奴隷売買は、身代金目的の拉致といった側面もあったようである。また、奴隷に食べさせる食糧もただではないので、すぐに買い手が付く値段にしているのである。さらにいえば、合戦が多く奴隷がたくさん売られ過ぎているため値崩れしていたという面もある。
日本史研究会