代表曲『残酷な天使のテーゼ』で知られる歌手の高橋洋子さん。「『残酷な天使のテーゼ』でヒットを飛ばした後に、芸能界から身を引いて介護の仕事をしていた」時期があったと言います。本稿では、川内 潤氏の著書『わたしたちの親不孝介護 「親孝行の呪い」から自由になろう』(日経BP)より一部を抜粋し、5年間プロとして介護の現場に身を置いた高橋さんと川内さんのインタビューを紹介します。
「こちらが『してあげる』より、受け取れるもののほうがずっと多い…」5年間〈介護〉の仕事に携わった歌手の高橋洋子が気付いたこと
ぬくぬく生きていては、いい歌は歌えない
高橋洋子さん(以下、高橋):川内さんは『親不孝介護』で、「介護を通して自分の生き方が見えてくる」という話をされていますよね。いい考え方だと思います。すごく共感します。
川内潤さん(以下、川内):えっ、うれしいです、ありがとうございます!
高橋:そして、私にとっての「生き方」は、自分が歌う歌だ、と思っているんです。私の生き方を皆さんに歌を歌ってお届けしていきたい。ならば、上げ底状態でぬくぬくとボケっとして生きている状態での歌は、お届けすべきではないと思いました。
編集Y:周囲の方は止めたんじゃないですか。
高橋:はい、「まだ子どもが小さいでしょ」「安定したお給料がもらえるのに」と。でも、子どもに対して胸を張って歌うことができる私でいたかったし、お給料をもらうために歌っているわけではない。私が届ける価値のある歌を歌う、そのことの対価として、結果としてお金をいただくというか、生きるということが歌うことと直結して、それに対して聴く方が価値を決めてお金を払っている、そういう世界であるべきだと思ったのです。
それで「辞めます!」と勢いよく芸能界から飛び出した。でも、当時30歳を過ぎて、資格どころか就職経験すらないので、仕事が見つかりません。子育て中だったので、非常勤がいいと思ったんですけれど、非常に少なくて。
そんなときに住んでいたエリアの行政の広報誌で「介護ヘルパーの資格取得のための費用を半分助成する」という制度を見つけて、さっそく申し込みました。
川内:そういった助成制度は、行政によくありますね。
高橋:これで介護ヘルパーの資格が取得できました。その後、非常勤として介護事業所にヘルパー登録をしたり、老人介護施設で働いたりするようになったわけです。ただ、非常勤の介護の仕事は薄給なのでそれだけでは家族を食べさせることができませんでした。
なので、朝はガソリンスタンド、その後にコーヒーショップ、昼からはデイサービス、という日々でした。
川内:質問したいことが山積みになっているのですが、まず、まったく無縁だった介護の仕事を選んだ理由は何でしょう。これ以外に働き口がなかったと言われましたが、他のパートのお仕事もされていたわけですよね。
高橋:ええ、パートやバイトならいくらでもありました。でも、非常勤で週5日働けて、有休ももらえる、というのは、本当に介護しかなかったんですよ。
川内:ああ、なるほど。でも抵抗感や怖さはなかったですか、介護の仕事に。