【前回記事】定年以降「幸福に生きる男性、不幸になる男性」の決定的差

従来型の「男らしさ」の呪縛

世の中高年男性たちは、職場と家族以外での人間関係を作るのが苦手で、地元や地域コミュニティなどにネットワークを持たない人も多い。経済的・精神的な困難に直面しても、助けてもらえる先が乏しかったり、そもそも誰かに助けてもらえると想定していなかったりする。

さらに男性は弱音を吐いてはいけないと思い込み、自身の弱さを認められず、他人や公的機関に助けを求められないまま、孤独をこじらせていく。

こうした形での日本の中高年男性たちの孤独に対し、果たしてどんな実践的な処方箋が考えられるだろうか。

「男性も職場と家庭以外の帰属場所を持とう」という話になるが、そうするといまだに男性たちは、「早期退職し地方に移住して自給自足」とか「脱サラしてラーメン店を開業」とか「そば打ち」とか、極端でストイックなイメージに捉われやすいように思われる。

もちろんそれらの選択肢が悪いわけではない。しかし、そこにはイメージの貧しさがあり、偏りがあるのではないか。もう少し多様な選択肢があっていいし、ゆるやかなライフスタイルの変革があっていいだろう。

男性たちも依存先を拡げていこう

たとえば、身体に障害をもつ小児科医の熊谷晋一郎は、「自立とは依存先を増やすことである」と述べている。

だとするなら、月並みな意見だが、常日頃から仕事・家族以外にも複数の「依存先」を作り、ポジティヴな意味でのタコ足配線を増やしていくことが必要になってくるのではないか。そうすることができたら、男性たちも、たとえ完全な形では人生の孤独を消しされなくても、孤独を徐々に緩和し、分散していくことができるのではないか。

男性は「男のプライド」にこだわったり、能力主義を重視して何事にも効率的で意味のあることを求めがちだ。たとえば病気でリハビリ中の身でも「おれはあいつより努力しているから回復が早い」などと、競争意識や能力主義にとらわれてしまう。

日常の「ささやかなこと」や「無駄に思えること」に意味を見いだせないことが、「男」らしさの呪縛なのかもしれない。日々の「無意味な楽しさ」に巻き込まれてそれを味わえばいいのに、なぜかそれを積極的な「男の趣味」や「~道(どう)」にしてしまう。そうしないと気が済まない。

ささやかな事柄のようで、案外この辺りに重要な問題が隠れている気がする。

仕事に限らず趣味や地域関係などを増やして、できる範囲から人間関係を少しずつ拡げていく。そこから、「男らしさ」に過度に依存せずにすむようにカスタマイズされた生き方を探し出していく。

冴えない、裕福でもない、特別な才能もない平凡な人生を幸福に生きる

これまでの男性たちの文化は、結婚せずに独身で、特にエリート会社員でもなく、高い意識をもって社会貢献しているわけでもないが、「生きることはそれでも楽しい」「そこそこに幸福だ」──そのような人生の文化的なモデルをあまり作ってこられなかったのかもしれない。

中年男性だってべつに、犬猫と暮らして幸せだって構わないはずだ。パンケーキやタピオカをインスタにアップして男友達と楽しんでもいいはずだ。

そういった「そこそこ」に人生を楽しむためのモデルがあまりなく、保守的で家父長制的な男らしさか、リベラルでスマートな男性モデルか、それくらいしか選択肢がない。そうした規範的なライフスタイルからこぼれ落ちたときにも、そこそこに幸福でそれなりに自由な生き方ができるというイメージを持っていない。

近年「オタク男性」や「草食系男子」や「イクメン」などのモデルが作り出されてきたように、男性の生き方の規範にももっとさまざまなバリエーションがあっていいし、選択肢や物語や文化があっていいだろう。

それほど冴えた人生ではないし、豊かでもないし、「正規」の会社員や家族を持ってもいないけれど、そこそこ楽しく幸せでいられる。そうした光の当たらない中高年男性たちがささやかに集まって──ホモソーシャルではなく、あるいはブラザーフッドのようなものでなくても──楽しく過ごせる、本心を語り合ったり相互ケアしたり弱さをシェアしたりできる、そんなポジティヴな「物語」がもっとあっていいだろう。

『1日外出録ハンチョウ』が教えてくれる“ゆるやかで肯定的な人生”

たとえば福本伸行のベストセラー作品『カイジ』シリーズのスピンオフに『1日外出録ハンチョウ』(原作・萩原天晴、漫画・上原求、新井和也、協力・福本伸行)というマンガがある。

『カイジ』の中でも名作と名高い「地下チンチロ」編の登場人物、ハンチョウこと大槻(46歳)、その腹心の沼川(35歳)、石和(34歳)が主要人物である。

彼らは悪徳企業の帝愛グループに借金をして、それを返済するために地下労働施設で働いている。地下には「ペリカ」と呼ばれる独自通貨が流通していて、規定のペリカを支払えば、地上へ出て1日外出ができる。

ハンチョウたちは地上での食事や観光、仲間うちでの遊びなどを様々な形で満喫する。連載当初は、ハンチョウに一般人へのマウンティング意識があったり、いわゆる「飯テロ」が中心の描かれ方をされていたが、次第に物語は、中年男性たちが何気ない日常を楽しむこと全般へと拡がってきた。

中心となる3人の他にも、監視役の黒服・宮本、シングルファーザーの黒服・牧田、寡黙な料理の達人・柳内、借金を完済し地下から解放された善良な木村などの人物が出てくるが、彼らの多くは中年男性たちである。

ポイントになるのは、中心人物たち(の多く)が結婚しておらず、恋人もいず、特にエリート社員でもなく、イケメンでもない、冴えない、中年の地味なおじさんたちであることだ。格別に意識が高いわけでもない。社会貢献の意志などもない。

そのような志の低いおじさんたちが、おいしいご飯を食べたり(しかもそれは特別に高額な「グルメ」ではない)、旅行や観光をしたり、趣味を共有したり、スーパー銭湯に行ったり、一緒に部屋でダラダラまったり過ごしたりするのを楽しみつくす。

近年、多数派男性としての「おじさん」の無自覚さや差別意識が批判されることが多くなった。『ハンチョウ』は、そうした男性=「おじさん」たちにも、無理なく、自然な形で、様々な気付きを与えてくれるだろう。

ハンチョウたちはべつに善人でも優等生でもなく、欠点も卑劣さもダメさも抱えた男性たちである。彼らはいわば「ふつうの男性」に近い男性たちであり、その点でも身近さを感じさせる。

光の当たる冴えた人生ではないし、華々しくもない。けれど、それなりに趣味があって楽しいとか、気の合う中年の仲間がいてそれで満足とか、誰からも承認されなくてもささやかな満足があればそれでいいとか、そういう人生の形。そしてそれを支える男性たちのささやかな友情関係。非差別的で平和的なホモソーシャリティ。

『ハンチョウ』はそうした日々の喜びを地道に、丁寧に(作中の比喩でいえばぬか漬けのように)積み重ね、発酵させているのだ。

くりかえすけれども、現代日本の男性たちには、そういったゆるやかで肯定的な人生のモデルがあまりないのかもしれない。

企業戦士的な男らしさや、家父長的な父親像や、リベラルでスマートなイクメン的な男性や社会起業家のイメージしか与えられていない。オタクや草食系男子などのモデルもあるけれど、多数派の男性たちにももっと様々な、多様な、そこそこ楽しく幸福で、あまり暴力的ではない人生のモデルがあっていいだろう。

男性たちにもそのような解放感が必要である。

杉田 俊介

1975年生まれ。批評家。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。ほかの著書に、『非モテの品格――男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)、『宮崎駿論』(NHK出版)など。『対抗言論』編集委員、「すばるクリティーク賞」選考委員も務める。