現代日本の男性には、保守的で家父長制的な男らしさか、リベラルでスマートな男性モデルか、それくらいしか選択肢がない。そうした規範的なライフスタイルからこぼれ落ちたときにも、そこそこに幸福でそれなりに自由な生き方ができるというイメージを持っていない…。批評家・杉田俊介氏はこのように指摘します。男性の生き方の規範にももっとさまざまなバリエーションがあっていいし、選択肢や物語や文化があっていいはずです。杉田氏の著書『男がつらい! - 資本主義社会の「弱者男性」論 -』(ワニブックス)より一部を抜粋し、見ていきましょう。
【前回記事】「持たざる男性」が何気ない日常を楽しみつくす…!『1日外出録ハンチョウ』が教えてくれる、“ゆるやかで肯定的な人生”
日本人の日常に寄り添う「かわいいものたち」
サンエックスのすみっコぐらしが好きだ。
サンエックスは、たれぱんだ、リラックマ、まめゴマなどの脱力系キャラクターで有名な会社である。
特に、脱力が行きすぎて、不気味な無能さのカタマリになり、輪郭すら溶けてゆるんでいく、という「たれぱんだ」には、学生時代から思い入れがあった。たれぱんだの前身の、パンダのふわふわシールも持っていた。
ゆるキャラブームは少し下火になったかもしれないが、あいかわらずぼくたちはキャラクターやかわいいものたちに囲まれている。
仕事や人間関係は鬱々とするものばかりだし、ネットも殺伐としているから、動物やかわいいものの写真や動画ばかりをついついリツイートし、「いいね!」してしまう。
そうしたキャラクターたちはいにしえの八百万(やおよろず)の神々や付喪神(つくもがみ)のようでもある。いまや人間は現実と虚構の壁を越えて、進化するキャラたちと新たな共存をはじめているのだろう。
すみっコは、おじさんにとって「新たなライフスタイルの参照枠」
すみっコぐらしは、脱力系というにとどまらず、かわいさの中に深い悲しみがある。
たとえば、北極生まれなのに寒さに極端に弱い「しろくま」。痩せて理想の自分になりたい恥ずかしがり屋の「ねこ」。カッパとしての記憶を喪失して、自我の不安に悩み、自分探しを続ける緑色の「ぺんぎん?」。人間に追われて母親と離れ、恐竜であることを仲間にもカムアウトできず罪悪感をいだく「とかげ」。
どのキャラクターも、社会的なマイノリティとは言わずとも、この世界の中で生きづらいメンタルを抱えた存在たちであり、弱者性を持っている。
さらには食べ残された脂身部分の「とんかつ」、「えびふらいのしっぽ」、「ざっそう」や「ほこり」(!)に至っては、ほとんど狂気のような無能さ、無用さを感じさせる。
この社会から廃棄されたり、掃き捨てられたりするものたち。見捨てられるのではなく、そもそも人々の目に見えてすらいないものたち…。
そんなすみっコたちが、この社会の周縁、すみっこに身を寄せ合って、仲間たちとの小さなコミュニティを作り、ほのぼのと生きていくのである。
競争や、承認や、生産性や、能力主義とは無縁なままに、である。そこには、何ができるかではなく、お互いが存在していることそのものを肯定し合う共同性がある。
現代の「おじさん」たちにとっても、そんな「すみっコ」たちの姿は、新たなライフスタイルの参照枠になり、物語になりうるのではないだろうか。
「ありのままでいい」「だめなままでいい」というラディカルな存在肯定
たとえば劇場映画2作目となる『映画すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ』(2021年)で、すみっコたちは各々に固有の「穴」──欠落感や劣等感、マイノリティ性──を抱えており、そのような欠落感をいつの日か乗り越えることを夢見ている。
しかし、その心の「穴」を埋めてしまうと、各々のキャラクターの肝心な個性も消えてしまう。見上げる月に絶対に手が届かないように、彼らの存在と夢の間には残酷な距離があり、その「穴」や距離は永遠に埋められないが、だからこそ、それぞれの生にとっての「夢」を持つことが大切になってくる。
作中では、魔法使いが、心からの善意ですみっコたちの欠落=「穴」を消し去る魔法を使う。すると、アイデンティティ不安を抱えたぺんぎん?がとつじょ自己啓発的になったり、自分の身体に自信のなかったねこがポジティヴになったりする。
確かにそれは功利主義的な意味では幸福度が上がった状態と言えるのかもしれない。しかし、彼らは魔法によってほとんど別人格になってしまい、自らの存在根拠を見失ってしまうのである。それは非常に不気味で、ぞっとする光景だ。
そこには「ありのままでいい」「だめなままでいい」という単純な形での承認を超えるような、ラディカルな存在肯定の形がある(ちなみに映画第1作『すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』は、『ジョーカー』よりも陰惨な映画であるとか、虚淵玄〔うろぶちげん〕の作品のように救いがないともネットで評された)。
「もののあはれ」という感情を知る人こそが、まっとうな人の道を行ける
すみっコたちの「可愛い」は「可哀想」と表裏一体なのである。それは癒しとは少し違う。「可哀い」とでも言うべきだろうか。
現代の若者言葉で使われる「エモい」は、古文でいう「をかし」(感覚的かつ知的な感動)よりも「あはれ」(情緒的な感動)に近い感情を表しているのだという。
なんの生産性も能力もなく、無用で儚く憐れな小さきものたち、それを大切に慈しむ美的な感情としての「もののあはれ」(かわいい≒かわいそう!)。その感情を、かつてのこの国の文化は、人間の道徳的なものの源泉であると考えてきた。
それならば、他者排除的にならないような「もののあはれを知る」とは、どういうことだろうか。
かわいいものたち、八百万の神々のようなゆるキャラたちを愛することには、人生の重要な意味が隠されているのかもしれない。
たとえ道徳的な善悪がわからず、物事の真偽の基準がわからなくなっても、もののあはれ(エモい! 可愛い=可哀想!)という感情を素朴に知る人こそが、他人や自然の心(情)がわかる、まっとうな人の道を行けるのだろう。どんなに意識が低く、志が低い人であっても。
ゆるキャラが好きなんて男らしくない、おじさんのくせに恥ずかしい、と切り捨てられる時代はとっくに過ぎ去っただろう。
おそらく「おじさん」の中にだってなにがしかの可愛さがあり、可哀さがある。それが「男」たちの自己憐憫や現実逃避だとは思わない。この過酷な資本主義と能力主義と生産力主義の社会の中で、無能で、無力で、無用なものとされていくのは、いったい「誰」なのだろうか。
「すみっコぐらし」の世界のように、たとえこの世界の残酷なルールは変えられないとしても、「片隅」(弱者性、非正規性)から逃れられないとしても、この世界の中にあるスキマやゆるみを利用して、いつか男性たちも、心からの安息の中で眠りにつけるといいと思う。
杉田 俊介
1975年生まれ。批評家。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。ほかの著書に、『非モテの品格――男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)、『宮崎駿論』(NHK出版)など。『対抗言論』編集委員、「すばるクリティーク賞」選考委員も務める。