「新選組」の初代局長、芹沢鴨。暴力沙汰のエピソードに事欠かず、最期は仲間に暗殺されたことからも、狼藉者として語られることの多い彼ですが、実は人情に厚く、教養深い一面もありました。本記事では、真山知幸氏の著書『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部を抜粋し、平生あまり陽の目を見ることのない、芹沢鴨の知られざる意外な人物像を解説します。
これまでの芹沢鴨(?〜1863)といえば?
幕末の京都で活動した、幕府の警察組織「新選組」。局長の近藤勇、そして副局長の土方歳三がまず思い浮かぶだろう。だが、初代局長を務めた人物はほかにいる。それが芹沢鴨である。
芹沢は酒が入るといつも大暴れするトラブルメーカーで、乱闘騒ぎも多かった。ある店が、反幕府勢力に資金援助しているという噂を聞いたときには、大した確認もせず襲撃してことごとく破壊。焼き討ちにして、建物をほぼ全焼させている。また、相撲力士の集団と一悶着があったときには、力士を斬りつけて大怪我を負わせた。バイオレンスすぎて最期は同僚の近藤勇らに暗殺された、リーダー失格の乱暴者。
実は…乱暴者だが、筋を通すところは心得ていた
◆乱暴さのなかに見える潔さと教養ぶり
新選組の初代局長を務めた芹沢鴨は、仲間であるはずの近藤勇らによって、暗殺されたことで知られている。その後は近藤が、新選組の局長として名を馳せることとなる。
芹沢が排除されたのは、あまりに乱暴者で、その行いに問題が多すぎたからだ。芹沢の乱暴なふるまいは残念ながら事実で、新選組を結成する前から起こしている。
芹沢は水戸藩(現在の茨城県)の芹沢村に武士として生まれた。神道無念流(しんとうむねんりゅう)の剣術修行にはげみ、免許皆伝の腕前を持っていたという。
その後は、武田公耕雲斎(たけだこううんさい)を師匠とし、耕雲斎が「天狗党(てんぐとう)」という政治グループを結成するとそれに参加。旗頭(はたがしら。部隊長)として、隊員300人を任せられている。人を束ねるリーダーとしての資質があると、周囲から思われていたのだろう。
ただ、残念なことに、芹沢の優れた剣の技術が、よくない方向に発揮されることが少なくなかった。ある宿に隊員と宿泊したときのことだ。部下と意見が対立すると、カッとなってしまい、3人の首をはねてしまったという。鹿島神宮に参拝したときには、大きな太鼓をみて「目障りだ!」と激怒。鉄扇でたたき割っている。
天狗党自体が幕府から目をつけられていたこともあり、あえなく芹沢は逮捕。3人を斬った罪は言い逃れのしようもなく、芹沢は死罪を言い渡されることになる。いかにも芹沢らしい逸話だらけだ。こんな荒っぽい男ならば、殺されてしまうのも仕方がないように思える。
しかし、死罪が決まってからの芹沢の振る舞いは、なかなか肝がすわっており、堂々とした武士そのもの。絶食により果てようと考えて、食事を一切、口にしなかった。
そして小指をかみ切ると、自分の血でこんな和歌を牢屋に残した。
「雪霜(ゆきしも)に 色よく花の 魁(さきが)けて 散りても後に 匂(にお)ふ梅が香」
(梅の花は、他の花よりも早く雪や霜のころに咲いて、雪や霜の白に彩〔いろどり〕を添える。そして花が散っても残り香があるように感じるものだ)
美しい情景が目に浮かぶようだ。乱暴な一面ばかりが強調される芹沢だが、実は教養人としての一面もあった。
◆因縁は近藤のミスがきっかけ?
処刑される寸前の芹沢だったが、そんなときに「浪士隊」の募集が行われる。時の将軍である徳川家茂(とくがわいえもち)が上京するため、そのボディーガードが募集されたのだ。
浪士隊の発案者である清川八郎(きよかわはちろう)は、「腕に自信があれば犯罪者でも参加できる」という条件にしたため、芹沢は浪士隊に参加。処刑されずに済むことになった。この浪士隊の一部が、のちの「新選組」へとつながっていく。
募集の結果、浪士隊は234人と予想以上にふくれ上がった。江戸を出発して京都を目指すが、出発から3日目にして早速トラブルが起きる。宿舎の割り振りをしていた近藤が、芹沢の宿を取り忘れてしまったのだ。芹沢は激怒して、「野宿をするから、暖をとる!」と言い出し、宿場の人通りがあるところで、大きな焚火をしはじめたという。これではいつか火事になると、宿場は大騒ぎに。近藤がひたすら謝ったが、なかなか許さなかった。
このときのいざこざを悔しそうに見つめていたのが、土方歳三や沖田総司らだ。芹沢が暗殺されたのは、このときの報復だったのではないかともいわれている。ただ、この件で先に落ち度があったのは近藤である。
確かに芹沢は酒グセが悪くて数々のトラブルを起こしている。だが、暗殺までされた直接の要因は、新選組が結成されてから起きた、芹沢派と近藤派での派閥争いだ。一方のリーダーである芹沢の命が、近藤派に狙われたというのが実態に近いようだ。
◆子ども好きで義理堅い一面も
そして先ほど挙げたように、芹沢がただの乱暴者でもない一面はほかにもある。屯所(とんじょ。隊員の待機所)として世話になった八木邸では、出入りする子どもたちによく慕われて、一緒に絵を描いて遊んだりしていたという証言もある。また、八木邸で葬儀が行われたときには、受付係を引き受けるなどの義理堅い性格も見せている。
「仲間に暗殺されるだけの、とんでもない悪者なのだろう」と決めつけられやすい芹沢。その人生については、史料不足でまだまだナゾが多い。文化に詳しくて面倒見もよかった芹沢の人間らしい一面が、これから新たに明らかになってくるかもしれない。
真山 知幸
伝記作家、偉人研究家、名言収集家
1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年より独立。偉人や名言を研究するほか、名古屋外国語大学現代国際学特殊講義、宮崎大学公開講座などで講師活動も行う。『10分で世界が広がる15人の偉人のおはなし』『賢者に学ぶ、「心が折れない」生き方』『ヤバすぎる!偉人の勉強やり方図鑑』など著作は60冊以上。