※表記年齢は数え年で統一し、没年齢は、実年齢表記としています。

「日本のビスマルク」と称えられた男、伊藤博文

イラスト:ヤギワタル
イラスト:ヤギワタル

【就任の経緯】

1885年、長州藩4名(伊藤博文首相・山県有朋〔やまがたありとも〕内相・井上馨〔かおる〕外相・山田顕義〔あきよし〕法相)、薩摩藩4名(松方正義〔まさよし〕蔵相・森有礼〔ありのり〕文相・大山巌〔いわお〕陸相・西郷従道〔つぐみち〕海相)、土佐藩1名(谷干城〔たてき〕農商相)、旧幕臣1名(榎本武揚〔たけあき〕逓相)の計10名で初の内閣成立。

※戦前の首相は「同輩中の首席」にすぎず、国務大臣は天皇に対し個々に責任を負った(議院内閣制でもなく帝国議会に対して連帯責任を負わない)ので、首相に国務大臣の任免権はなかった。グループアイドルのリーダーに立場が近い?

【就任時の年齢】

第一次内閣44歳(歴代最年少)、第二次内閣51歳、第三次内閣57歳、第四次内閣59歳

【退陣の理由】

第一次内閣⇒大日本帝国憲法・皇室典範制定に専念するため初代枢密院議長に転任(現在でいう無任所大臣として閣議には出席)。

第二次⇒松方蔵相との対立+板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党を同時に取り込もうとして双方から反発+陸軍・貴族院の山県閥から反発=「日清戦後経営」における挙国一致体制構築に失敗。

第三次⇒地租増徴案に反発した自由党と進歩党の合同=憲政党成立。第一次大隈内閣〔隈板(わいはん)内閣〕の短命を見越し退陣。

第四次⇒初代総裁を務める立憲政友会内の対立(星亨逓信〔とおるていしん〕相の汚職を契機とする伊藤系官僚vs旧憲政党員)+山県閥からの攻撃。

【キャッチフレーズ】

「日本のビスマルク」ドイツの“鉄血宰相”を彷彿させる権勢の強さに、当初は保守的な明治天皇に警戒されたが、実行力もあることから後に信頼を得た。

【生没年】

1841〔天保12〕年9月2日〜1909年10月26日(68歳没) 
木戸孝允(たかよし)の8歳下・井上馨の6歳下・山県有朋の3歳下・高杉晋作の2歳下で、長州藩では最年少の人材。黒田清隆(薩摩)の1歳下・大隈重信(肥前)の3歳下。

【出生】

山口県(周防国〔すおうのくに〕)出身 
山口県光(ひかり)市で、長州藩の百姓林(はやし)家の長男に生まれる。のち父が萩(はぎ)の中間(ちゅうげん。武家奉公人で足軽と小者の中間にあたる)の養子となり、その家が足軽伊藤家を継ぐ。幼名は利助。師の吉田松陰から俊英の「俊」の字を与えられ俊輔(しゅんすけ)と改名。

伊藤博文のキャリアは「初代〇〇」だらけ

【学び】

萩城下の松下村(しょうかそん)塾に入門し吉田松陰に学び尊王攘夷の志士となる(16歳)→長州藩江戸屋敷で桂小五郎〔木戸孝允〕の従者(18歳)→藩命により「長州ファイブ〔長州五傑〕」の一人として、井上馨らとイギリスに秘密留学(22歳)→井上とともに緊急帰国し四国艦隊下関砲撃事件の講和使節・高杉晋作の通訳を務める(23歳)

【キャリア】

1865年、高杉の功山寺挙兵に力士隊を率い参加(24歳、長州藩討幕派の一人に)→1868年、外国事務係→参与兼外国事務局判事→初代兵庫県知事(27歳、英語力による抜擢 ※神戸は開港場)→大蔵少輔(しょうふ)・民部少輔・租税頭(がしら)など(28歳、1871年に新貨条例を公布し72年の鉄道開業も準備)→1871〜73年、岩倉使節団の副使としてアメリカ・ヨーロッパ・アジアを歴訪(30〜32歳、イギリスでヴィクトリア女王に謁見しドイツでビスマルクと会談、帰国して明治六年の政変後に参議兼初代工部卿〔きょう〕)→1877年、西南戦争で西郷隆盛敗死(36歳、木戸孝允も京都で病死)→1878年、大久保利通暗殺を受け参議兼内務卿(37歳、「維新の三傑」が亡くなったため右大臣岩倉具視(ともみ)の下で参議兼大蔵卿大隈重信と二頭体制に)→1881年、明治十四年の政変で大隈を追放(40歳)→1882〜1883年、渡欧してドイツとオーストリアで憲法調査(41〜42歳、ベルリン大学でグナイスト、ウィーン大学でシュタインに学びビスマルクとも再会)→帰国途中に岩倉が病死し政府の実質トップへ(42歳)→1884年、制度取調局を設置し長官(43歳、宮内〔くない〕卿として華族令も制定)→

…→1885年、天津条約全権、内閣制度を創設し初代首相・初代宮内大臣(44歳、第一次内閣)→1886年、井上毅(こわし)・金子堅太郎・伊東巳代治(みよじ)・ロエスレルとともに憲法・皇室典範・衆議院議員選挙法・貴族院令起草に着手(45歳)→1888年、初代枢密院議長(47歳)→1890年、第一回帝国議会で初代貴族院議長(49歳)→枢密院議長に再任(50歳)→

…→1892年、軍備拡張予算を通すため実力者を集め第二次内閣組閣(51歳、元勲〔げんくん〕内閣)→1893年、近代六法制定のため法典調査会を設置し初代総裁(52歳)→1894年、陸奥宗光(むつむねみつ)外相が領事裁判権の撤廃と最恵国待遇の相互平等化に成功→日清戦争開戦(53歳)→1895年、下関条約〔日清講和条約〕全権(54歳、陸奥外相とともに)→

…→1898年、第三次内閣組閣(57歳)→1900年、星亨の憲政党と合流し立憲政友会初代総裁、第四次内閣組閣(59歳)→1901年、総辞職(60歳)→1902年、井上馨とともに日英同盟反対とロシアとの不戦〔日露協商論・満韓交換論〕を主張し退けられる(61歳)→1903年、立憲政友会総裁を西園寺公望(きんもち)に譲り3度目の枢密院議長(62歳、以後は憲法に規定のない“元老”扱い)→1905年、第二次日韓協約により初代韓国統監(64歳)→公爵(66歳)→1909年、韓国統監を辞任し3度目の枢密院議長、ロシア蔵相と列車会談のため満洲に渡りハルビン駅頭で安重根(あんじゅんぐん)により暗殺(68歳、撃ったのが韓国人と確認すると「馬鹿な奴ぢゃ」とつぶやき亡くなる)。

伊藤博文の人間関係

【ライバル】

大隈重信、山県有朋(同じ長州閥だが政党に反対)、松方正義(財政政策で対立)。

【味方】

井上馨(ともにイギリス留学、以後も大親友)、明治天皇。

【世話になった先生や先輩】

吉田松陰・高杉晋作・木戸孝允(長州藩)、大久保利通(薩摩藩)、三条実美(さねとみ)・岩倉具視(公家)、シュタイン(ウィーン大学法学教授)など。

【世話をした部下】

渋沢栄一(大蔵省・国立銀行条例)、森有礼(初代文相)、井上毅(憲法・教育勅語起草)、金子堅太郎(憲法起草)、伊東巳代治(憲法起草)、末松謙澄(すえまつけんちょう。伊藤の次女と結婚、井上・金子・伊東とともに“伊藤の四天王”)、陸奥宗光(外相)、西園寺公望(第2代立憲政友会総裁・首相)、原敬(はらたかし。のち第3代立憲政友会総裁・首相)など。

【名言】

●留学を控えた次男へ:
「お前に何でも俺の志(こころざし)を継げよと無理は言はぬ。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になったとて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて、喜びもせぬ」

●高杉晋作を後年評して:
「動けば雷電の如(ごと)く、発すれば風雨の如し。衆目駭然(がいぜん)として敢て正視する者なし。これ我が東行(とうぎょう)高杉君に非(あらず)や」
<訳:ひとたび動けば雷電のよう、言葉を発せば風雨のようだ。周囲は驚き呆然とするばかりで、正視する者はいない。これぞ私の高杉さんなのだ>

●近代立憲国家確立者としての自負:
「我々に歴史は無い。我々の歴史は今ここからはじまる」

英公使館に放火、フグ料理を解禁、女好きを天皇に注意されても“泰然”

【エピソード】

①品川御殿山(ごてんやま)に建設中のイギリス公使館焼打ちに高杉や井上とともに参加した国際問題レベルの放火犯。

②イギリス留学時、手違いで上海(シャンハイ)から違う船に乗せられ、「長州ファイブ」全員が水夫のような扱いで苦労した。

※5人は伊藤が首相・枢密院議長・元老、井上馨が外相・元老、遠藤謹助(きんすけ)が造幣局長、山尾庸三(ようぞう)が法制局初代長官、井上勝(まさる)が鉄道庁長官などを歴任した「日本鉄道の父」となる。

③岩倉使節団のアメリカ大統領グラントとの条約改正交渉時、明治天皇の全権委任状がないことを指摘され、大久保利通とともに日本へ取りに戻り太平洋を往復した。

④使節団で同じ船に乗った6歳の津田梅子と交流があり、彼女が17歳で帰国後に住み込みの家庭教師に雇い、妻(鹿鳴館での作法)や娘(学業)の教育係をさせたこともある。

⑤フグ料理を解禁。豊臣政権以来禁食令が出されていたが、山口県下関の春帆楼(しゅんぱんろう。伊藤が名付け親でのち日清講和条約の舞台となった料理旅館)を首相として訪れた際、大シケで他の魚がなく、女将が処罰覚悟でフグを出したところ「こんな旨い魚を食わせん手はない」と条件付きで解禁令を出した。

⑥第二次内閣組閣時、人力車が馬車と衝突し歯を折る。脳震盪(のうしんとう)の後遺症も見られ一時政務不能となり、内相の井上馨が約3ヵ月首相臨時代理に。

⑦井上の三井のように政商・財閥に接近しない性格なので資財に乏しく、明治天皇から10万円の御手許金を下賜(かし)されたことがある。

⑧女好きが有名であだ名は「箒(ほうき)」(掃いて捨てるほど愛人アリ)。天皇から注意された時も、「皆は隠れてやってるが自分は堂々としてるので潔い」と豪語。人妻だった岩倉具視の次女を首相官邸の仮装舞踏会で誘惑し、ゴシップ記事になったこともある。

【特徴】

自負心・名誉欲が強く、自らを大きく見せがちだが陽気で女好き。性格が淡泊・無造作で飾らない私生活。必ず汽車賃を払うなど公私混同をしない。英語は得意だが特別な専門領域をもたない、気配りの利くゼネラリスト。調整力は抜群。

【好き】

女性、葉巻、酒、琵琶演奏を聴くこと。

【苦手】

①ベタベタした関係(すぐ抜擢する割には面倒見が悪い)。

②ドイツ語(憲法調査の際は責務の重さもあり神経症を病むほど苦労)。

③財政政策(数字が苦手でドンブリ勘定)。

【豆知識】

①旧長州藩主の毛利家に対し生涯敬意を払い続け、事あるごとに伺候(しこう)した。しかも元の足軽身分を考え、必ず末席に着いた。

②1963年、聖徳太子に代わり千円札の肖像に選ばれる。渋沢栄一と競い、ヒゲがあったことから勝利したか。1984年、夏目漱石に変更。団塊ジュニア世代以上なら「新札も使えます」と表示された券売機が懐かしい。

伊藤 賀一 
スタディサプリ講師 
1972年京都生まれ。新選組で知られる壬生に育つ。法政大学文学部史学科卒業後、東進ハイスクール、秀英予備校などを経て、リクルート運営のオンライン予備校「スタディサプリ」で高校日本史、歴史総合、公共、倫理、政治・経済、現代社会、中学地理、歴史、公民の9科目を担当する“日本一生徒数の多い社会講師”。
著書・監修書に『改訂版 世界一おもしろい 日本史の授業』、『笑う日本史』『「カゲロウデイズ」で中学歴史が面白いほどわかる本』(以上、KADOKAWA)、『1日1ページで身につく! 歴史と地理の新しい教養365』(幻冬舎新書)、『くわしい 中学公民』(文英堂)など多数。