<前回記事>
「走る修行僧」瀬古利彦、「おっぱっぴー」小島よしお、優勝を「アレ」と呼ぶ岡田監督…卒業生が多彩すぎる「早稲田大学」。創設者もなかなかに“濃かった”件

※表記年齢は数え年で統一し、没年齢は、実年齢表記としています。

「ニコニコしながら肩をポン」で相手を手懐けたコミュ強、桂太郎

イラスト:ヤギワタル
イラスト:ヤギワタル

【就任の経緯】

初代立憲政友会総裁・伊藤博文の第四次内閣の後継に井上馨(かおる)が指名されたが、渋沢栄一に蔵相就任を断られ組閣を断念。初の第三世代として、陸軍・長州閥の桂太郎が山県有朋(やまがたありとも)の勢力を背景に組閣(第一世代が「維新の三傑〔西郷隆盛・大久保・木戸〕」、第二世代が伊藤・黒田・山県・松方・大山・西郷従道〔つぐみち〕ら薩長の「元勲〔げんくん〕」+大隈)。以後、第2代立憲政友会総裁・西園寺公望(きんもち)と持ち回りの「桂園(けいえん)時代」に突入した。

※首相在任期間の合計2886日は、3188日の安倍晋三に次ぐ2位。第三次内閣の62日という短命ぶりは、第一次岸田文雄内閣の38日、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)内閣の54日に次ぐ3位。

【就任時の年齢】

第一次内閣54歳、第二次61歳、第三次65歳

【退陣の理由】

第一次内閣⇒日露戦争に勝利したが賠償金を獲得できず、講和条約締結に反対する民衆が日比谷焼打ち事件を起こし、東京市に戒厳令(かいげんれい)を出すなど混乱を招いたため。

第二次⇒大逆(たいぎゃく)事件(幸徳秋水〔こうとくしゅうすい〕ら無政府主義者12名が明治天皇暗殺計画の嫌疑で死刑となる)と南北朝正閏(せいじゅん)問題(国定教科書に「南北朝並立」の記述があり、政府は南朝正統論だったため文部省の喜田貞吉〔きたさだきち〕が休職となる)が続けて起き、責任を負う。

第三次⇒第一次護憲運動により辞職に追い込まれる(=大正政変)。

【キャッチフレーズ】

「ニコポン」(ニコニコ近づきポンと背中を叩いて相手との距離を縮めた)

【生没年】

1847〔弘化4〕年11月28日〜1913年10月10日(65歳没) 
長州藩では、山県有朋の9歳下・伊藤博文の6歳下で、寺内正毅(まさたけ)の5歳上。他に、西園寺公望の2歳上・加藤高明(たかあき)の13歳上。

【出生】

山口県(長門国〔ながとのくに〕)出身 
山口県萩市で、長州藩士の長男に生まれる。桂家の祖先は、藩主毛利家と同じ鎌倉幕府初代政所別当・大江広元(おおえのひろもと)とされる。

日英同盟締結、日露戦争、日韓併合などを主導

【学び】

6歳から私塾で習字・素読(そどく)を学び、10歳からは違う師に通い和漢の学を修めた。18歳で世子 毛利元徳(せいし もうりもとのり。のち最後の長州藩主)の小姓役を命じられ、務めつつ藩校明倫館の文学寮員外生として和漢の学をさらに修めた。21歳の1868年、戊辰(ぼしん)戦争で劣勢の部隊を率いて東北を転戦し、苦労の連続で隊長としてはほぼ失格だが、勝ちはしたので評価される。22歳で中隊指令を務め家督を相続、陸軍修行のため上京し横浜語学所へ入学、フランス人教師から7ヵ月間語学特訓を受けた。

23歳の時、横浜語学所が大阪兵学寮に統合されたが官費留学がないことを知ると、私費によるフランス留学を計画した。横浜からの同船者には長州藩士品川弥二郎(やじろう)と薩摩藩士大山巌(いわお)がいた(この2名は普仏戦争で敗れたフランスの視察が目的)。フランスは敗戦後の混乱にあったので、プロイセン〔ドイツ〕に留学先を変えて語学を習得、翌年から予備役(えき)の陸軍少将邸に同居して軍事学を研究した(長州藩の青木周蔵も公費留学生として2年前から滞在)。翌年、岩倉使節団が首都ベルリンに到着、長州藩の木戸孝允(たかよし)や伊藤博文と会い、案内役を務めたのち26歳の1873年に帰国し、木戸邸に下宿した。

【キャリア】

1874年、木戸孝允の紹介で陸軍に任官し大尉→少佐(27歳、山県有朋の側近)→ドイツ公使館付武官となり渡独し軍政研究に従事(28歳、ベルリン大学で法律・経済を学び名将モルトケ将軍にも接近)→1878年、大久保利通暗殺を契機に帰国し中佐(31歳、渡欧中の井上馨とともに帰国)→大佐(35歳)→陸軍卿大山巌の欧州視察に随行(37歳)→少将(38歳)→陸軍次官(39歳)→同年、獨逸(ドイツ)学協会学校(のちの獨協〔どっきょう〕学園)の第2代校長を兼任→

…→1890年、中将(43歳、第一議会で山県首相の側近として予算成立に尽力)→第三師団長として名古屋に赴任(44歳、軍政だけでなく軍務を経験したかった)→1894年、第三師団を率い日清戦争へ(47歳、苦戦するも奮闘し翌年凱旋して病床につく)→1896年、第2代台湾総督(49歳、伊藤博文首相・西郷従道海相とともに視察旅行はしたが病み上がりのため赴任せず国内で業務を進め、同年中に乃木希典〔まれすけ〕に総督を譲る)→1898年、第三次伊藤内閣の陸軍大臣として初入閣(51歳、第一次大隈内閣でも陸相に留任)→大将に昇進し第二次山県内閣・第四次伊藤内閣でも陸相に留任(〜53歳、最後は体調不良を名目に立憲政友会の内閣を嫌がり児玉源太郎に陸相を譲る)→

…→1901年、第一次内閣組閣(54歳、「緞帳〔どんちょう〕内閣」「小山県〔こやまがた〕内閣」と揶揄される)→1902年、第一次日英同盟協約締結(55歳、小村寿太郎〔こむらじゅたろう〕外相・駐英公使林董〔ただす〕の尽力)→内相を兼任(56歳)→1904年、日露戦争開戦(57歳)→1905年、日露戦争に勝利しポーツマス条約を締結するも日比谷焼打ち事件起こる(58歳、文相を兼任)→1906年、年始早々に総辞職(59歳)→貴族院議員(60歳)→

…→1908年、第二次内閣組閣(61歳、蔵相を兼任し戊申詔書を軸に翌年から地方改良運動を展開)→1910年、韓国併合(63歳、翌年その功により公爵)→1911年、小村外相が条約改正を完全達成するが総辞職し政界引退(64歳、“元老”待遇となるがそれを元老とみなすかは諸説アリ)→1912年、内大臣兼侍従長となり宮中に入るが政界復帰して外相兼任で第三次内閣組閣(65歳、第一次護憲運動起こる)→1913年、立憲国民党を切り崩し“桂新党”(のちの立憲同志会)を結成するも、総辞職に追い込まれ年内に病死(65歳、「大正政変」)

伊藤博文、品川弥二郎、青木周蔵…長州藩の先輩たちから可愛がられた

【ライバル】

西園寺公望(交互に政権担当した「桂園時代」には“情意投合〔=気持ちピッタリ〕”路線でともに愛妾〔あいしょう〕を連れて食事するなど仲良し)。軍人では、桂太郎・児玉源太郎(長州藩)、川上操六(かわかみそうろく。薩摩藩)を「明治陸軍の三羽烏(さんばがらす)」と呼ぶ。

【味方】

明治天皇(伊藤博文死去後、最晩年は桂を信頼)、お鯉(おこい。愛妾である芸者)。

【世話になった先輩】

木戸孝允(世話になりすぎて感謝しまくり、ドイツ駐在時には宛名が「木戸尊大人〔そんたいじん〕様閣下」と大げさすぎる手紙を毎月送った)、山県有朋(桂が自立した晩年は関係が悪化)、伊藤博文、品川弥二郎、青木周蔵など長州藩の先輩たちから可愛がられた。

【世話をした部下】

小村寿太郎(外相、ポーツマス条約締結・条約改正完全達成)、後藤新平(逓相)、加藤高明(外相のち立憲同志会初代総裁)、若槻礼次郎(蔵相)など。

推しは「モルトケ将軍」。留学時は近くに引っ越して散歩姿を眺めていた

【名言】

①「一日に十里の路(みち)を行くよりも、十日に十里行くぞ楽しき」(⇒楽天的性格)

②「天が私を試しているのだ」(⇒長男の訃報に際して。しかし、気落ちした桂は同年に病死)

【エピソード】

①頭がデカい(あだ名は「大きな赤ん坊」「大黒様」「巨頭公」など)。背は低かったが脳の重量は1600gもある(日本人成人男子の平均は1300g台)。「遺体を解剖して脳味噌の重さを計ってほしい」というのが遺言。東大医学部の標本室に脳が保存されている。ちなみに浜口雄幸(おさち)や三木武夫のものもある。

②口が上手い。人に取り入るのが得意で、伊藤博文曰く「十六方美人」。

③27歳下の3番目の妻は、長州藩の先輩井上馨の養女ということにしてもらったので、桂は井上の義理の息子といえる。

【桂太郎が始めたもの】

参謀本部創設を建議、ドイツ陸軍メッケル少佐の陸軍大学校教官としての招聘(しょうへい。旧知のモルトケ将軍の厚意)、台湾協会学校(のちの拓殖大学)、桂・タフト協定(アメリカのフィリピン支配を認め、日本の韓国における外交権を認めさせる)、条約改正完全達成、工場法制定、恩賜(おんし)財団済生会(日本最大の社会福祉法人として医療機関・福祉施設を運営)、立憲同志会(63歳、のち憲政会→立憲民政党→戦後に日本進歩党)など。

【得意・趣味】

語学。欧米の言語だけではなく、将校には中国語習得も必要と力説していた。

【大好き】

ドイツの国民的英雄モルトケ将軍。留学時は近くに引っ越し散歩姿を眺めていたほど。

【苦手】

世話にはなったが、晩年は山県有朋から最終的に自立したかった。山県を反面教師に政党結成を目論み「政治家」として生きようとしたので、元老扱いは良くても、「軍人」最高の栄誉である元帥は辞退したほど。

【豆知識】

①長州藩士時代の写真は、細身でお洒落な超イケメン。

②日露戦争時、ハーグ陸戦条約という戦時国際法にのっとり、7万数千人のロシア軍捕虜を人道的に扱った。

伊藤 賀一 
スタディサプリ講師 
1972年京都生まれ。新選組で知られる壬生に育つ。法政大学文学部史学科卒業後、東進ハイスクール、秀英予備校などを経て、リクルート運営のオンライン予備校「スタディサプリ」で高校日本史、歴史総合、公共、倫理、政治・経済、現代社会、中学地理、歴史、公民の9科目を担当する“日本一生徒数の多い社会講師”。
著書・監修書に『改訂版 世界一おもしろい 日本史の授業』、『笑う日本史』『「カゲロウデイズ」で中学歴史が面白いほどわかる本』(以上、KADOKAWA)、『1日1ページで身につく! 歴史と地理の新しい教養365』(幻冬舎新書)、『くわしい 中学公民』(文英堂)など多数。