<前回記事>
【朝ドラで話題】「初の女性弁護士」誕生!盛大な報道に、三淵嘉子(23歳)は「困ります」…意外にも“冷めた返答”をした、深いワケ

夫の死、母の死…。終戦を迎えるも嘉子の逆境は続いた

終戦を迎え、嘉子は稲田登戸の両親のところへ戻り、再び明治女子専門学校の教壇に立ちます。とはいえ、多くの人がまたそうであったように、戦後の混乱の中で嘉子の苦労は続きました。

1946(昭和21)年5月23日、上海から引き揚げてきた夫の芳夫が、持病であった肋膜炎により、長崎の陸軍病院で亡くなりました。結婚してからわずか4年半、一緒に暮らすことができたのは3年程度でした。

さらに、1947年1月には、いつも応援し続けてくれていた母のノブも、脳溢血で亡くなります。

嘉子は、長い時間が経ってからも、この戦時中・戦後の辛さを思い出して、友人や同僚の前で涙を流すことがしばしばあったそうです。

自他ともに恵まれたお嬢様育ちだった嘉子は、悲しみを乗り越えて自らの力で人生を切り拓かなければいけない状況に追い込まれていました。

「男女平等」を認めた新しい日本国憲法の施行を前に、嘉子が一念発起

逆境の中で、嘉子は強く生きていこうと決意し、夫を失った自分自身にとって、また女性にとって、特に大事なのは経済的自立だと考えるようになります。1947年3月、嘉子は司法省を訪れ、大臣官房人事課長の石田和外(後の最高裁判所長官)に対して、裁判官採用願を提出しました(司法省は法務省の前身ですが、裁判官の人事権を掌握するなど、法務省とは位置づけが異なります)。

それまで、裁判官・検察官になった女性は1人もおらず、しかし実は「男性に限る」という規定が存在していたわけではありませんでした(つまり、規定はないのに、採用面などでの実態において、男性に限られていたのです)。

男女平等を認めた新しい日本国憲法が施行されようという時期で、そのもとで、女性も裁判官になれるはずだ、なれるようでなければならない、と嘉子は強く思っていました。

かつて高等試験司法科を受けた時、司法官(裁判官・検察官)試補採用の告示に「日本帝国男子に限る」と書かれていたのを見て、男女差別に対する怒りを感じていました。その気持ちも、嘉子の背中を押しました。

石田和外は、嘉子を坂野千里東京控訴院長と引き合わせてくれました。

しかし、坂野からは、女性裁判官が初めて任命されるのは、新しく最高裁判所が発足してからの方が良いと言われ、裁判官としての仕事を勉強するために、司法省へ入ることを勧められてしまいます。

日本の司法制度も大きな変革の中にあり、坂野にはそのことも念頭にあったのでしょう。嘉子は残念ながら裁判官にはなれず、1947(昭和22)年6月、司法省民事部に嘱託として採用されました。

「家制度」を廃し、個人の自立を進める改正・立法作業へ関わることに

嘉子は、司法省民事部で民法調査室の所属となって、当時改正・制定の途上にあった民法・家事審判法の議論に関わっていきました。

明治時代に作られた民法は、ドイツを中心に諸外国の影響を強く受けたものでしたが、そのうちの家族法については、日本独自の「家制度」を設けていました。「家制度」のもとでは、戸主の力が極めて強く、結婚した女性は無能力者(契約などの法律行為を単独では行えない人)であると位置づけられていました。

1947年5月に新たに施行された日本国憲法のもとでは、このような女性の人権を無視した「家制度」は当然ながら認められず、大幅な改正が必要だったのです。

また、関連して、「個人の尊厳と両性の本質的平等を基本として、家庭の平和と健全な親族共同生活の維持を図ること」を目指して、家事審判法の制定が進められました。

この家事審判法に基づいて、「家庭内や親族の間に生じた争の事件や争でない重大な事柄の事件をやさしい手続きで、早く、親切に、しかも、適切に処理する家庭事件専門の裁判所」として、1948年1月に地方裁判所の支部として家事審判所が設置されます。

嘉子の正直な気持ちとしては、裁判官になれなかったことへの不満もありました。とはいえ、ここで進められた改正・立法作業は、「家制度」を廃して個人の自立を進めるものであり、嘉子はそれに関わることに大きなやりがいも感じていたといいます。

なにより、この時代に得た関心・知識・経験が、後に家庭裁判所の発展に力を尽くすようになる嘉子の人生に、大きな影響を与えていくのです。

そして最高裁判所へ

1948年1月、嘉子は発足したばかりの最高裁判所の事務局(現在の事務総局)民事部に移ります。関根小郷・内藤頼博など、親切な上司・先輩たちからの様々な教えを受け、「裁判官としてどのような心構えで裁判をすべきか」ということはこの時代に培われたと、後に嘉子は語っています。

さらに、1949年1月、全国に家庭裁判所ができると(家庭裁判所は、先に述べた家事審判所と、戦前から存在し司法省が管轄していた少年審判所とを統合して、全国49ヵ所〔地方裁判所の数と同じ〕に置かれたものです)、最高裁判所の中に、家庭裁判所の設立に尽力した宇田川潤四郎を局長とした家庭局ができ、嘉子はそこに所属することになりました。

嘉子はここで、親族法・相続法・家事審判関係の法律問題や司法行政上の事務などと向き合う日々を送っていきます。この時代の仕事を通して得た知識や経験もまた、後に家庭裁判所の発展に邁進することになる、嘉子の基礎となりました。この時代、『主婦と生活』や『婦人倶楽部』といった雑誌に、家族法関係の簡単な解説(遺産の分け方、親権を失う場合など)を書いたり、インタビューに答えたりもするようになります。

新しい法律、新しい制度を市民に啓蒙する役割を、積極的に担っていこうとしていた様子がうかがえます。

神野 潔 
東京理科大学教育研究院 教授 
1976年生まれ。2005年、慶應義塾大学大学院法学研究科公法学専攻後期博士課程単位取得退学。東京理科大学理学部第一部准教授、教授等を経て、現在、東京理科大学教養教育研究院教授。専門は日本法制史。主著に『教養としての憲法入門』(編著)、『法学概説』『概説日本法制史』(共編著)(弘文堂)などがある。