※本稿は、テック系メディアサイト『iX+(イクタス)』からの転載記事です。
「ジャパンモビリティショー」誕生の歴史的背景を追う
「ジャパンモビリティショー」誕生の背景を大きな視点でとらえるなら、「東京モーターショー」がフルモデルチェンジした形であるということができます。
東京モーターショーの歴史を振り返ると、それはまさに日本社会の「時代の移り変わり」を映し出す鏡でした。
第1回は、戦後の復興期である1954年に、東京の日比谷公園内広場で「全日本自動車ショウ」として開催されました。当時、自動車は富裕層向けで、主流は社用車やトラックなどの商用車であり、「乗用車」という発想がほとんどありませんでした。
その後、50年代後半から60年代にかけて、日本が著しい経済発展を遂げるなか、乗用車は庶民にとって「手が届く夢」という存在に変化していきます。
1959年の第6回から東京晴海の日本貿易センターでの室内開催へと移行。これを機に「全日本自動車ショー」と表記が変更されました。来場者数は1962年に100万人を突破し、会場内は大混雑するようになります。
1964年の第12回から「東京モーターショー」に改名。欧米では、自動車産業見本市を「モーターショー」と呼ぶことが多く、日本も国民総生産(GDP)で見ると徐々に先進国の仲間入りをする時期に入っていきます。
また、1962年に三重県の鈴鹿サーキット、1966年には静岡県の富士スピードウェイが開業したことで、若者のスポーツカーに対する憧れが高まり、60年代の東京モーターショーでは走行性能が高いハイパフォーマンスカー、またイタリアのカーデザイン専門企業(通称カロッツェリア)に依頼した近未来をイメージするコンセプトモデルも登場するようになりました。
ところが、70年代に入ると、中東の政治情勢の影響でオイルショックが起こります。また、アメリカで排気ガス規制が強化されたことも相まって、乗用車でも低燃費で環境に配慮した小型車が増えたり、当時はまだ技術レベルが決して高くなかった電気自動車など登場したりするなど、東京モーターショーの出展車にも明らかな変化が起きました。
続く80年代から90年代にかけては、日本の経済力が高まり、アメリカなど海外での日本車の現地生産も増え、また海外ブランドの日本市場進出も相次いでいたところに、いわゆるバブル崩壊が直撃。自動車業界にも大きな衝撃が走りました。
その後、2000年代に入ると、乗用車・二輪車ショーと商用車ショーを隔年開催するようになります。これはドイツなど欧州での開催方法を参考にしたものと考えられます。
2009年には、アメリカで発生した経済危機、いわゆるリーマンショックによって出展者と来場者がともに前回比から半減するという事態に陥りました。
さらに2010年代に入ってからは、入場者数は80~90万人レベルで頭打ちとなり、また輸入車ブランドの出展も減少傾向がはっきり現れるようになりました。
海外ではモーターショー変革の議論高まる
ここで話を海外に移します。筆者は日本では60年代後半から、また海外では70年代後半から各地のモーターショーを巡るようになりました。
2010年代前半時点で、代表的な海外モーターショーは、北米国際自動車ショー(通称デトロイトショー)、ジュネーブショー、IAA(通称フランクフルトショー)、パリサロン等の名前が挙がっていたと思います。
2000年代から急速に経済発展してきた中国、インド、ブラジル、さらにタイ、マレーシア、インドネシアなどの東南アジア各国でも、大規模なモーターショーが開催されるようになったため、欧米モーターショーを加えてかなりタイトなスケジュールで世界各地を取材するようになっていきます。
同じ頃、米ネバダ州ラスベガスで開催される、世界最大級のITや家電に関する国際見本市のCES(コンシューマ・エレクトロニクス・ショー)へ自動車産業界からの出展が徐々に増加し、「CESがモーターショーにとって変わる時期が近いかもしれない」という声が自動車業界から漏れ出すようになります。
背景にあるのは、「CASE」と呼ばれる次世代技術です。CASEとは、通信によるコネクテッド、自動運転技術、シェアリングなどの新サービス領域、そしてEVを筆頭とする電動化のことを指します。これらが複合的に連動することで「人×社会×クルマ」のありようが変化する可能性が高まってきています。
この変化に伴い、長年にわたって「人×クルマ」という社会変化のなかで進化してきたモーターショーにも、「社会」との繋がりが強化されるべき時代に突入しつつあります。
また消費者も、SNSの普及をはじめとする社会変化のなか、ひとりひとりの個性を主張するライフスタイルへと移行し、「人×暮らし×社会」の繋がりが徐々に変わっていきました。
このような社会変化に対して、「従来型のモーターショーの存在意義はなくなる」という懸念を、海外モーターショー関係者が2010年代前半から半ばにかけて抱くようになります。
実際、この時期に筆者は欧州の大手モーターショー主催者から「近未来のモーターショーのあり方について、日本企業を含めて真剣に議論したい」という提案を受けています。
そうした海外モーターショー関係者の懸念は的中します。2010年代半ば以降、欧米のモーターショーで自動車メーカーの出展数が一気に減り、それに伴い来場者も減少していったのです。
各国のモーターショー関係者はさまざまな趣向を凝らすも、出展者や来場者の大幅な回復には至らず、デトロイトショーでは開催期間を冬から初夏に変更したり、またドイツでは開催地のフランクフルトからミュンヘンに移したりするなど、抜本的な変革に打って出ました。
それでも、2000年代までと比べると、自動車メーカーの出展数は大幅に減ったままです。
主催者としては、一般ユーザーのみならず、多様な業界の人たちが交流できるビジネスの場としてモーターショーのさらなる変革に挑んでいるところです。
ジャパンモビリティショーが目指す到達点とは?
こうした海外でのモーターショー大変革は、当然、日本にも直接的な影響を及ぼしています。
前回の東京モーターショーは2019年に開催され、従来使用していた大きな展示スペースである東京ビッグサイト東館は、その次の年に開催予定だった東京オリンピック・パラリンピックの準備のために使用できなかったものの、「OPEN FUTURE」をキーワードに多様な業界とのコラボによって、来場者数が先回からほぼ倍増する130万人を突破しました。
その後、新型コロナウイルスの流行により2021年の東京モーターショーは中止。
そして今回、1964年から続いてきた東京モーターショーを改名し、ジャパンモビリティショーとして生まれ変わりました。
自動車メーカー各社はブース内で単に新車を並べるだけではなく「自ら大きく変わろう」とするメッセージを来場者に向けて発信するとしています。その方法は各社様々であり、具体的にどのような「場の雰囲気」になるのかが興味深いところです。
また、自動車産業のみならず各分野の企業が協力して未来の東京を実物、または仮想空間を通じて表現する「Tokyo Future Tour」は、「クルマと社会」の新しい形を直感的に捉えることができる、来場者にとって貴重な体験になることが期待されています。
そのほか、水素を燃料とする燃料電池車を電源としてアーティスト等のコンサートを行う「H2 Energy Festival」、そしてこども向け職業体験施設「キッザニア」とコラボした「Out of KidZania」は、これまでの東京モーターショーではなかった新しい発想です。
産業振興の視点では、スタートアップを支援するプロジェクト「Startup Future Factory」にも注目が集まるでしょう。
キャッチコピーは「乗りたい未来を、探しにいこう!」
東京モーターショーから、ジャパンモビリティショーへ、どのような進化を遂げたのか、皆さんもぜひ現地で味わっていただきたいと思います。
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桃田 健史
自動車ジャーナリスト、元レーシングドライバー。専門は世界自動車産業。エネルギー、IT、高齢化問題等もカバー。日米を拠点に各国で取材活動を続ける。日本自動車ジャーナリスト協会会員。