大谷の「ヒーローズ・ジャーニー」

2022年シーズンも前年に劣らぬ大活躍を見せた大谷はその年の10月、エンゼルスと年俸3000万ドルで1年契約を交わした。

歴史的な円安がニュースになっていたが、年俸をドルで受け取る大谷にとって、円安になるほど懐に入る円での金額は増えることになる。契約当時のレートで約43億円という大谷の年俸は、物価上昇を受けて、日々の生活費を切り詰めている多くの庶民にとっては天文学的な数字となった。あまりに桁が違うため、羨ましいとすら思わない。等身大の「会いに行けるアイドル」が一般的になった今日だが、大谷の存在は物理的にも精神的にも、あまりにも遠い。そのとてつもない遠さ、手の届かなさが大谷を紛れもないスーパーヒーローにした。いわば神話的な存在で、多くの人はその生身の姿を見たこともないが、しかしこの世界に確かに存在していると信じる存在。それは即ち「神」である。

大谷は神のごとく、人間を超越した存在として崇められている。「雲の上の存在」、などという表現では不十分で、この世のものとは思えない存在。アメリカのMLB中継を見ていても、現地のアナウンサーが大谷を“He is not from our planet”(彼は地球人じゃない)、“He is not a human”(彼は人間じゃない)といった表現で大谷のすごさを称えている。

僕ら日本人は、この世界における最たる「大谷信者」だ。この生きづらい、先の見えない世の中を大谷さまが救ってくれる……。

2023年春、世界はすっかり「アフターコロナ」となり、日本でもようやくマスクの着用要請が解除されたころ、大谷は日本に“上陸”した。第55回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場する「侍ジャパン」の一員として。

大谷が日本のファンの前でプレーするのは、2017年オフのMLB移籍後では初めてで、実に5年半ぶりのことだった。初の実戦となった3月6日の強化試合で、大谷はいきなり魅せた。この日の対戦相手だった阪神タイガースの投手陣を相手に、2打席連続の3ランホームラン。1本目は低めの変化球に体勢を崩され、片膝をつきながら片手でバックスクリーンまで運んだ。2本目は内角のボールにつまらされ、バットを折りながらも右中間スタンドまで運んだ。「メジャー級」などという言葉ではまったく物足りない、規格外のパワーだった。

日本のメディアはこの日、当然ながら大谷一色となった。大谷と同じユニフォームを着る侍ジャパンの選手たちも「次元が違う」「言葉が出ない」などと、あっけにとられた様子で感想を述べた。この試合を中継していたテレビのアナウンサーは「大谷がとんでもない姿で帰ってきました!」と興奮して伝えた。

そう、大谷は帰ってきたのである。MLBで世界最高の選手になるという旅を終えて、母国の日本へ。

アメリカの神話学者ジョゼフ・キャンベルは、古今東西の神話に登場するさまざまな英雄の物語を研究し、それらの物語に共通のテンプレートがあることを発見した。それは「主人公が旅に出て、苦労しながらも成長し、やがて帰還する」というものだ。この物語の流れは「ヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)」と呼ばれ、古い神話だけでなく現代のフィクションにもよく見られる。たとえば『スター・ウォーズ』『ライオン・キング』『千と千尋の神隠し』『ドラゴンボール』など、世界的にヒットした物語の多くはこうしたシンプルだが力強いプロットにのっとっている。

大谷翔平の人生も、そんな「ヒーローズ・ジャーニー」のひとつだと言えよう。23歳で渡米し、故障やスランプで苦労しながらも成功を収め、そして故郷に帰ってきたのだ。もちろん大谷はまだ旅の途中にあり、物語の続きは誰にもわからない。創作された物語と違って、シナリオはない。シナリオがないからこそ、僕らは大谷にこれほどまで夢中になれるのだろう。

“とんでもない姿”で日本に帰ってきた大谷はその後、大会MVPに輝く活躍で侍ジャパンを世界一に導いた。間もなく始まったMLBのシーズンでは日本人初、アジア人初のホームラン王に輝き、MLB史上初めて2度目の「満票MVP」を受賞した。そしてシーズン終了後の12月、ロサンゼルス・ドジャースと10年総額7億ドル(約1015億円)というスポーツ史上最高額で契約し、大谷の「ヒーローズ・ジャーニー」は次のチャプター(章)へと移行した。

「日本人メジャーリーガー第1号」村上雅則の渡米から約60年。そして「日本人メジャーリーガーのパイオニア」野茂の渡米から約30年。大谷は、日本人メジャーリーガーの歴史における頂点を極めた。

日本人メジャーリーガーの歴史において今後、これ以上の高みが果たして訪れるのだろうか?

もし今後、日本社会が過去30年と同じようにゆっくりと衰退していくならば、やがて大谷を超えるような選手が現れるのかもしれない。これまで日本社会が衰退すればするほど優れた野球選手が出てきて、ついには大谷が登場したのだ。政治が混乱し、経済が低迷するほどスポーツの熱狂は高まり、優れたアスリートが誕生する……。

スポーツは時に「時代を映す鏡」と言われるが、今の日本では大谷こそが「時代を映す鏡」なのだ。

内野 宗治

ライター