NHK大河『どうする家康』徳川家康が織田信秀、今川義元の人質になった意外な経緯

NHK大河『どうする家康』徳川家康が織田信秀、今川義元の人質になった意外な経緯
(※写真はイメージです/PIXTA)

徳川家康は10代になる以前から「人質暮らし」を強いられ、さまざまな苦労や嘆きや悲しみを味わいました。過酷な境遇のなかで、家康は「波瀾の10代」を送ることになります。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。

身内に裏切られて織田家の人質に

■結婚も離婚も政策次第

 

松平元康(徳川家康)の両親について改めて詳述したい。父は岡崎城の城主松平広忠、母は刈谷城(愛知県刈谷市)の城主水野忠政の娘お大(於大)である。2人が結婚したのは1541(天文10)年正月で、広忠は16歳、お大は14歳だった。嫡男の竹千代(家康の幼名)が生まれたのは、翌年12月26日の寅の刻(午前4時頃)である。

 

しかし、竹千代の幸せは続かなかった。3歳のときに生母と引き離される不幸に遭遇する。お大が離縁されたのだ。

 

離縁劇の引き金となったのは、今川家に従属していたお大の父(竹千代の外祖父)水野忠政の死去である。水野家の後を継いだのは、お大の兄で嫡男の信元だったが、信元は亡父の路線を踏襲することなく、今川離れを決断、織田傘下に入ったのだ。

 

そのトバッチリを受けたのが、水野家と同盟関係にあった松平家である。竹千代の父広忠は、「妻の兄が織田家に味方しては今川家に対する義理が立たぬ」といって、お大を離別するという政治的選択をした。お大には何の罪もなかったが、家を守るために合従連衡の道具にされるのは、戦国大名の娘に生まれた者の宿命だった。初婚も政略なら離婚も政略だったお大は、兄信元の命じるままに阿久比城主の久松俊勝と政略再婚し、3男3女を生むことになる。

 

お大に代わって竹千代(14歳で元服するまでの家康の幼名)を育てたのは、大叔母のお久(於久)である。お久は、“松平家の中興の祖”といわれた清康の妹(姉とも)だが、竹千代を育てた期間は短かった。お久は、桶狭間の戦いの翌年の1561(永禄4)年8月に岡崎城で没したが、家康は、祖父清康とお久の菩提を弔うために随念寺を建てている。家康は“忘恩の人”だったのだ。と同時に、“不忘怨の人”でもあった。

 

一方、お大を離縁した広忠が再婚相手に選んだのは、田原城の城主戸田宗光(康光)の娘真喜姫で、この人が竹千代の義母となる。

 

こうして、竹千代は3歳にして母と生別させられたが、母子の情は切れることなく生涯にわたって続いた。お大は、再婚した夫(久松俊勝)が死ぬと剃髪して「傳通院」と名乗るが、最期の息を引き取った場所は、家康が居住していた当時の伏見城の一室だった。1602(慶長7)年8月27日の出来事である。

 

広忠について付記すると、松平家を継いだのは、「守山崩れ」と呼ばれる政変によって父の清康が家臣に殺された10歳のときだった。そして守山崩れから14年後の1549(天文18)年3月、城内で家臣に斬り殺されるのである。

 

■金で売られた屈辱のトラウマ

 

竹千代が、今川義元の人質になるために駿河へ向けて岡崎を発ったのは、1547(天文16)年8月2日で、供衆28人、雑兵50人が随従した。

 

計画された旅程は、陸路を西ノ郡(蒲郡)まで行き、そこから船で三河湾を渡って田原へ着き、上陸して陸路を駿河まで向かうという道順だったが、田原に着くと田原城主の戸田宗光(康光)が迎えに来ていた。

 

戸田は、元康の義母(広忠の後妻〈継室〉真喜姫)の父、つまり外祖父である。

 

その戸田が一行に、親切ごかしに、こういった。

 

「陸路は危い。船で駿府(静岡市)までお送りしましょう」

 

船が向かった先は駿河ではなく、逆方向に西航し、着いたところは尾張の熱田だったのである。かくて、竹千代の身柄は、戸田の手にかかって敵国の織田家に千貫文(五百文説も)で売り飛ばされてしまった。今川家の人質となるはずが、略奪されて織田家の人質になるという、かくも“数奇”で屈辱的な体験がトラウマにならないはずがなく、人格形成や言動に多大な影響を及ぼしたと考えねばなるまい。

 

※千貫文は、今日の貨幣価値に換算すると、諸説あるが、数万円から数十万円見当か。

 

織田家では、竹千代を万松寺の塔頭「天王坊」に監禁した後、顔見知りの熱田の地侍加藤順盛<よりもり>の屋敷に移して幽閉したが、そこでの遇し方は決して悪くはなかったようで、後年(1603〈慶長8〉年)、家康は62歳で江戸幕府を開くと、順盛に140余石の土地を与えた。

 

信長と最初に顔を合わせたのは、順盛の屋敷だったとする説もある。家康が21歳のときに信長と軍事同盟「清須同盟」を結び、信長が本能寺で死ぬまで20年近く忠実にその関係を守ったのは、人質時代の扱いに悪い印象を持っていなかったからと推測してよいのではなかろうか。

 

ただし、信長は、家康を最初は盟友として対等に接していたが、忍従する性格を見透かしたのか、やがて格下に扱うようになる。それでも家康は、愚直なまでの忠義を貫き通し、信長に反旗を翻そうとするそぶりすら見せなかった。

 

竹千代が織田家の人質となって2年が過ぎようとしたとき、今川義元が安祥城を攻撃する事件が勃発した。義元は、城主の織田信広を降伏させて捕縛し、人質としたのである。

 

織田信広は、信長の庶兄(正室の子ではない兄)だった。そこで浮上したのが、織田家と松平家の間の「人質交換」。こうして竹千代は、8歳以降、当初そうなるはずだった今川家の人質となり、義元が桶狭間の戦いで信長に敗れて命を落とす19歳まで暮らすことになるのである。

 

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※本連載は城島明彦氏の著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)より一部を抜粋し、再編集したものです。

家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

城島 明彦

ウェッジ

天下人となり成功者のイメージが強い徳川家康。 だが、その人生は絶体絶命のピンチの連続であり、波乱万丈に満ちていた。 家康の人生に訪れた大きな「決断」を読者が追体験しつつ、天下人にのぼりつめることができた秘訣から…

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